2013年3月 2日 (土)

「人智を超える力」

 1年以上ぶりの更新だ。この間facebookで発信していたが、大事なことはブログに書いておきたいと思う。

 新聞で見て即購入した『神(サムシング・グレート)と見えない世界』(矢作直樹、村上和雄)は、期待通り面白かった。
 本書では、神を「サムシング・グレート」、「摂理」、「大いなるすべて」、「人智を超えた大いなる力」、「普遍意識」、「元親」などと定義する。キリストや仏ではなく、宇宙の摂理のような存在を知りたかった私にとって、これだと思わせる出だしだった。

 本は2人の対談形式で進んでゆく。遺伝学の世界的権威である村上和雄氏は、「人間の遺伝子がまったくのでたらめな配列・構成で組成されるということは絶対にありえない。私は、科学者としての経験からそう思うようになりました」と述べて、「神」の存在を示唆する。東大大学院教授で救急医療の医師である矢作直樹氏は、「(宗教において)根源的な存在である『摂理』はたったひとつだ」と述べ、「神、すなわち『大いなるすべて』の存在を確信しています」と言いきる。
 私は、遭難と遺体捜索で関わった山が聖山であったことから、チベットの聖地にひかれて、いくつもの地を訪ねてきた。7年前に上梓した『梅里雪山 十七人の友を探して』に、こう書いたことがある。

「聖山とは生命の源である。カワカブ(梅里雪山)という巨大な雪山の麓に暮らす人々は、山のもたらす水と森の恵みによって生かされている。生と死をつかさどるこの神の山は、人々の心の支えとなっている。」

 最近でた記事「知られざる自然の聖地~ヒマラヤの山岳地帯を歩いて」(ニュートン2013年2月号)のなかでは、こう書いた。

「(聖地を訪れると)人間の力を超える何かを感じる。それは、宇宙や生命の起源を想像するときに感じる「畏怖」にも似た感覚である。」

 山や聖地で、この世界全体をつかさどる摂理のようなものの存在を感じ、それこそが神の正体だと思ってきた。そのことを、2人の著者は見事に言いきってくれた。 

_5d_54924s_2              鬼神が宿るという山ツォン・ツォン・マに開いた風穴(ブータン東部)

 本書の話題は、「魂」や「あの世」に移ってゆく。
 自分という存在には「体」と「心」と「魂」があり、肉体的な死によって体と心はなくなるが、「魂」は永遠に続く、と2人の科学者はいう。そして、「魂」は現世から来世へ転生するというのだ! まるで、チベット仏教の信者のようである。DNAは単なる細胞の設計図だが、「魂の設計図」もあるのではないかといい、「その設計図に、前世やカルマ(業)、来世の情報などが、今世の情報と一緒にプログラミングされているのではないか」と、村上氏は問う。遺伝学を究めた人の発言だけに、軽くはない。
 ここまで読んで考えた。心とは「意識」であり、肉体的な生を受けたときにその存在が始まり、死によって存在が終わる。心を科学的に測ることは難しいが、誰もが意識できるものであり、その存在を認めるだろう。一方「魂」は、誰もが存在を認めるものではない。だが、「魂」は「無意識」の世界であると本書でいわれると、それならばわかるという人はいるだろう。無意識になにかをやってしまうことはある。夢もそうだ。夢のなかでは、まったく経験していないものが現われる。あれはいったいどうやって、自分のなかに入ってきたのだろう。そんなことを考えると、もしかしたら無意識=魂というものが自分のなかにあって、そこには前世や見えない世界の記憶が記されているかもしれないと思うのだ。

 本書では最後に、「魂」こそが神(普遍意識)とつながることできる、という話に収斂してゆく。さまざまな宗教の開祖は、何らかの方法で普遍意識とつながってお告げを受けた人だという。凡人でも、夢によって普遍意識とつながることがある。また、そのような大いなる存在(神や祖先など)ときちんとつながっていることが「霊的に健康な状態」であり、薬物やアルコールなどの依存症は、つながらないことにより生じる病だという。つながるということのなかで、「祈り」の解釈がもっとも刺激的だった。人は、自分の力ではどうにもならない事態に直面すると祈る。祈るしかない。それは、「神(森羅万象)とつながるため」なのだという。「神」とつながることによって、「心に中心軸が生まれ、どんな出来事に遭遇してもぶれない生き方を実現」できるという。
 この考えには、新鮮な驚きを感じた。自分の関心に関連づけていえばこうだ。

――聖地とは神(人智を超えた大いなる力)を感じられる場であり、そこで祈ることは、その「神」とつながるためである。――

 正しいかどうか、今の時点では確かめる術がない。ただ、そう考えると、いろいろなことがつながって理解できる。この考え方を核にして、これまでやってきたヒマラヤの聖地巡りを、確かな言葉にできるのではないかと感じている。

 一方で、根源的な不安がある。多くの聖地を訪ねて人智を超える力を感じ、チベット仏教の輪廻転生という考えにも接してきた。だが、私はなにも変わっていないのだ。一昨年の東日本大震災の年に、癌かもしれないと診断されて開胸手術をうけたことがある。しかし結果的に命に別状はなく、体も意識も大きく変わることはなかった。
 両氏はいう。

「(あの世や魂や霊が)あることを知っているのと知らないのとでは、生き方によって大きな差が生じます。そこが、人が幸せになるかどうかの分岐点であり、それができなければ、死の問題、死の恐怖は克服できません。」

 そうなのかもしれないと、これまでの人生から思う。だが私は、神(サムシング・グレート)や魂の世界があるかもしれないし、ないかもしれないと思うだけで、確信をもっていない。その存在を信じることによって得られるという幸福感を、感じたことはない。2人の科学者は、遺伝学や救急医療などの厳しい現場を究めることで、その意識に到達したのだろう。それが具体的にどういう経験の積み重ねだったのか、本書に丁寧には書かれていない。心拍停止状態から蘇生するなどの臨死体験をすると、人は変わるという。「魂」や普遍意識の存在を知って、「死が恐くなくなる」のではないかと矢作氏は指摘する。また、チベット仏教徒は、まさに魂や輪廻転生ということを日々信じて生きている。宗教の教えとともに、彼らが生きる過酷な環境がそうさせるのだろう。
 私はいつ変わることができるだろう。その日まで、神(人智を超える力)を探し求めて、歩き続けるしかない。

2012年1月10日 (火)

本年もどうそよろしくお願いいたします。

ずいぶんご無沙汰してしまいましたが、手術の傷口はだいぶ回復して、昨年11月にはブータンでトレッキングをすることができました。

この間のできごとを、フェースブックに書いていますので、そちらもご覧ください。http://facebook.com/bakoyasi

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ブータン東部の聖なる湖ダンリン・ツォにて(2011年11月)

2011年8月 5日 (金)

「自然へ祈る」

 ブログのタイトルを、「見えない影」から「前へ前へ」に変更した。
 新タイトルは、僕の座右の銘だ。
(実践はできていないが)
 病気の経過に加えて、チベット・ヒマラヤでの撮影取材を中心にした活動について、ときには日常のことなども書いてゆこうと思う。
 これからも、どうぞよろしくお願いします。

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 手術から2ヶ月がたったのを機に、お見舞いに来てくださった方や、相談に乗ってくれた医師の方々へ、経過報告とささやかなお礼の品を送った。
 お礼は、手前味噌だが、新しくつくったポストカード。毎日新聞の新連載「自然へ祈る」が始まったことを記念して、掲載予定の写真10枚を絵葉書にした。

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 どれも思い出深い写真である。そして、これからの活動の方向性を示す写真だと思っている。
 それぞれの写真について、その背景がわかるような記事も、少しずつ発表してゆきたい。
 もっと大きく見たい方や、ポストカードを入手したい方がいらっしゃれば、こちらをご覧ください

2011年7月28日 (木)

ランニング再開!

 手術から2ヶ月が過ぎた。
 肺の手術の場合、3ヶ月ほどで傷の影響がなくなると聞いていたので、3ヶ月目にはもとの体力に戻すことを目ざして、この間リハビリを続けてきた。
 退院後すぐに毎日の散歩を始めて、1ヶ月を過ぎたころからは息が上るような運動も意識的にやった。けれども鼓動が少し早くなると、胸のなかを小さな針で刺されるような痛みを感じて、ランニングの再開にはなかなか踏みきれなかった。

 7月8日(手術から1ヶ月半)に、長男のあさひがかよう保育園で七夕の笹流しがあり、写真を撮る人が足りないというので参加した。リハビリがてらのんびり撮ろうと考えていたが、カメラをもつとやる気がでるもので、一眼レフ2台を首からぶら下げて歩きまわり、汗だくになりながら1000枚以上の写真を撮った。走ることはできなかったが、体はいつのまにか動くようになっていたことを実感した。
 このとき、もうひとつ嬉しいことがあった。
 子どもたちは短冊に「およげますように」とか、「うちゅうに いけますように」など、思い思いの願いごとを書くわけだが、あさひが書いた願いはこうだった。
 「とうさんのきずが はやくなおりますように」
 それを知って胸が熱くなった。やりたいことや欲しいものではなく、父親の傷が治ることが一番の願いごとだったとは。彼の円形脱毛症はまだ治っていない。早くもとの体に戻らなければと、つよく思った。

 それから3日後の朝のこと。
 いつものように、保育園のバスが迎えに来る場所まであさひを見送りに行った。その日はたまたま機嫌が悪くて、バスに乗りたくないと泣きながらいうので、仕方なくいっしょにバスへ乗りこんだ。そして、無意識にあさひをだきあげて席へ座らせた。
 その後、泣いている子どもを乗せてバスはいつも通り出発したのだが、よく考えると、あさひをだきあげたのは手術後初めてのことだった。0歳の次男はだっこしていたが、17キロの長男を持ちあげるのは控えていた。久しぶりにだきあげたあさひは少し重くなっていたが、僕の傷はほとんど痛まなかった。傷が治りつつあることを感じた。
 その日の夕方、保育園から帰ってきたあさひに、「朝、だっこできたよな」というと、恥ずかしそうに飛びついてきた。今度は、力いっぱいだきあげた。あさひは足をばたばたさせて、体いっぱいに喜びを表現していた。
 良かった。涙がでそうになる。
 あさひの願いに、一歩近づくことができた。
 すてきな七夕をありがとう。

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 その翌週は、多忙な1週間となった。
 7日間のうちに、1泊2日の行事が3回連続したのだ。
 普段の体調なら忙しいなと思う程度だが、まだ傷の癒えていない体である。途中で体が動かなくならないようにと、慎重にのぞんだ。
 行事の1つ目は、アメリカから帰ってきている妹家族や両親との温泉旅行。手術後初めてプールに入って、少し泳いだ。調子にのって潜水をしたら、肺がチクチクと痛んだ。

 2つ目は、京都でのプロジェクト報告会。昨年12月に行ったインドの祭礼調査の報告をした。
 調査を終えてから半年以上たつのだが、その間に次男の誕生、東日本大震災、そして手術と重なり、調査の整理らしいことはほとんどできていなかった。そのため前日の準備は徹夜になり、一睡もせずに京都へ向かうことになった。
 何とか報告を終えて、2次会も顔をだし、その晩ビジネスホテルでようやく寝ることができた。
 翌朝、新幹線で帰宅する。新横浜駅のホームを歩いて、手術直後の激痛を思いだしながら、徹夜で京都を往復できるまでに戻ったんだとしみじみ思った、

 3つ目は、水戸で茶馬古道の講演会。紅茶館を主宰する方が毎年のように呼んでくださり、紅茶を学ぶ生徒さんの前で話をするのだ。
 前日に水戸へ入る。福島や宮城に近い町だが、震災後4ヵ月半たったこのときは、以前とあまり変わらないように見えた。しかし話を聞くと、水戸駅周辺でも建物が傾いたり住めなくなったりと、地震の影響がけっこうあったという。駅前通りのアスファルトも、波打っているところが多かった。
 前日に行ったのは、いつも懇親会を開いてくださるからだ。おいしい料理をいただきながら、震災やお茶の汚染の話をした。
 最近の神奈川や東京では、震災は遠いところの出来事という感覚が少なからずあるが、ここ水戸ではみな被災者に近い思いを持っているようだった。家の壁が崩れたり地震の影響で体調を崩したりと、多くの人が直接間接に被害を被っているからだろう。その分、みなの気持ちがひとつになっているような印象があった。僕も早く体を治して、被災地へ行かねばならないと思う。
 この晩は、料理とともにおいしいワインをいただいた。じつは手術後1ヶ月目にがんではないとわかってから、ビールを少しずつ飲むようになっている。だが、ワインを飲むのは初めてだった。断るわけにはいかないと言い訳して、数杯いただく。前日はあまり眠れなかったこともあり、気持ちよく酔いがまわる。こんなことでも、体の回復を実感した。

 翌日の午前中に、2時間半の講演をおこなった。2時間もしゃべり続けると息苦しくなることもあったが、40名以上の参加者は熱心に聞いてくださった。質疑応答も活発で、手応えがあった。多忙なスケジュールにはなったが、話しをさせてもらってよかったと心から思った。
 今回はもちろん仕事として報酬をいただいた。手術後に仕事らしい仕事をするのは初めてだった。久しぶりの充実感とともに、1週間を乗りきれたという満足感を覚えながら、水戸をあとにした。

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 そして、ちょうど2ヶ月目の昨日、満を持してランニングを再開した。
 普段は20分で走るコースを、30分かけてゆっくり走った。最初に息が上がってくるときは肺がチクチクしたが、慣れてくると違和感は消えていった。早歩きでは出ないような、心地よい汗をかいた。

 3ヶ月目には、手術前と同じペースで走ることが目標だ。一歩ずつ着実に、もとの体に戻してゆきたい。
 もし順調に回復できれば、そのときは、さらに次の目標も既に考えている。

2011年7月 7日 (木)

心の整理

 (前回7/6のつづき)

 手術後1ヶ月となる6月27日に、手術を執刀してくださったS教授の診察を受けた。そこで初めて、摘出された肺の写真(7/6掲載)を見た。それを見ると、手術後ずっと疑問に思っていたことの答えがわかってきた。

●なぜ腫瘤だけを小さくとる部分切除ではなく、左肺上葉の舌区をすべて切除したのか?

 「腫瘤の位置が動脈に近かったため」と、入院中に説明されたが、実物を見ない状態では腑に落ちなかった。
  写真を見ると、腫瘤はたしかに気管支の根元近くにあり、気管支の根元には動脈があることも納得できる。
 「あやまって動脈を切ってしまえば、その奥にある肺胞もダメージを受けて働かなくなり、小さく切除しても意味がないのです」と、S教授は説明してくれた。
 それでもがんでなければ小さく取ってほしかったという思いは残るが、技術的に難しいならば仕方がないだろう。

                              (補足) 左肺上葉の舌区           (出典1出典2Lobe

 手術後に感じた疑問が、もうひとつあった。
●「95%以上がんだろう」と言われて手術を受けたが、がんではなかったというのはどう理解したらいいのか?

 S教授に率直に伺ったところ、次のような答えだった。
・私も95%ぐらい肺がんだと思った
・そうは言っても、残りの5%に入ることがある
・抗酸菌感染症の可能性もあったが、がんと区別ができないため、手術がベターだった
・今回は幸いにがんでなかったが、もしがんであった場合、手術が遅れれば手遅れになる可能性があった
・(手術前に)がんとそうでないものとを100%鑑別することは、永遠にできないだろう

 つまり、今回のような肉芽種とがん細胞を、開胸手術することなしに100%鑑別することは不可能ということだった。
 S教授は肺癌手術の名医として多くの本で紹介される方で、その手術件数は数千件におよぶという。がんの疑いで手術をして、がんではなかった症例も少なくはないそうだ。だが手術をした患者の多くは、本当にがんだった。そのS教授が95%の確率でがんと判断したのなら、それ以上の診断は望むべくもなかったと思うしかなかった。

 ネットで検索すると、がんに侵された肺の写真がいくつか見つかる。日本病理学会の病理各論コア画像というページに、僕が疑いをもたれたものと同じ肺腺がんの写真がある。これを見ると、肉芽種もがんも色は同じように白っぽいが、その質感や中央の乾酪壊死巣の存在など、素人が見ても異なる点がある。しかし、目で見れば明瞭なこの違いを、X線やPETなどの間接的な方法では、見分けることができないのだ。そして、より精度のよい肺がん診断方法は、現状では手術以外に存在しない。
 造影CTで撮影した「見えない影」の画像を載せておこう。

X2s_4

Y1ss_7

Z1ss_4    

 これらの画像には、腫瘤が胸膜を引きこんでいる様子が見られる。これは、周囲の栄養を取りこんで無秩序に増殖するがん細胞の特徴だという。そのためこの腫瘤は、感染症による炎症等ではなく、がんの疑いが強いと判断された。
 このほかに、PET-CT検査でブドウ糖の接種率SUVが7.8もあったので、がんの疑いがより強いと判断された。PETの画像というのは、黒く写った全身写真に、がんと疑われる箇所だけがオレンジ色に光る不気味なものだ。(PET画像を入手するには、カルテ開示の手続きが必要とのことで、すぐには手に入らなかった)

 この「影」に対して、気管支鏡や針生検で開胸手術せずに組織を調べる方法は、もちろん検討された。しかし、病変が小さくて奥にあるため、確実に組織を採取できる保証がなく、そのうえもし採取した組織にがん細胞がなくても、がんを否定できないという。そのため、気管支鏡や針生検をやっても仕方がないという結論になった。

 95%以上という大きな確率ではなく、半分以上の確率で肺がんだと言われたとしても、乳幼児2人をもつ父親としては、手術をしないという選択はなかったと思う。
 がんのなかでも特に生存率が低いと言われる肺がんで、手術を受けられる時期は、病状の初期だけなのだ。体中の血液が集まる肺のがんは、転移が早期に起こりやすい。肺の外に転移してしまったら、手術をしても無意味なのだ。手術ができなければ、根治の可能性が低い抗がん剤や放射線治療を受けるしかない。
 肺がんの可能性が高いなら、1日でも早く手術を受けることしか考えられなかった。主治医の意向に反して、セカンドオピニオンを受ける余裕などなかった。
 肺の一部を失ったのは無念だが、手術を選択したことと、結果的にがんではなかったことは、仕方がなかったと思わざるをえない。

 今回の診察で、S教授に質問したいことはすべて聞くことができた。突きつめれば疑問は残るが、肺を切ってしまった以上、切らずにすむ方法はなかったかと後から考えても虚しさが増すばかりだ。
 何よりも、僕の体はどんどん回復している。退院してから今日までの1ヶ月間、毎日ウォーキングをして、最近は早足で歩けるようになった。もう1ヶ月もしたら、走れるのではないかと思う。
 S教授の言葉のなかに、嬉しいものがあった。肺を小さく切除した患者の場合は、肺の機能がほとんど変わらない人が多く、むしろ良くなる人さえいるというのだ。正確な理由はわからないが、肺の手術をした患者は、肺の働きを意識するようになるからではないか言っていた。
 それならば自分にもありえるのではないか。希望のもてる話だった。

 S教授に感謝の言葉を伝えて、病室を出た。
 そして、すぐに妻へメールした。
「がんの可能性はゼロとのこと。これからも家族4人で生活できる」
 数十秒後には返事がかえってきた。
「あぁ~良かった…ほんとに良かった…。安心した。 じゃあ今日はお祝いだね。焼き魚じゃダメだ。」
 僕には素晴らしい家族がいる。そのかけがえのなさを、42歳になって初めて実感した。
 今回の病をふりかえると、自分の生活や仕事において、いくつかの遠因があったように思う。なにかを変えねばならないという合図なのかもしれない。
 病気がなく惰性の生活を送っていたよりも、得るものが多かった。いつか、そう思いたい。
 再び与えられた命を大切にして、もう一度歩きだそう。一度暗くなりかけた眼前に、以前とは少し違う地平線が広がっている。

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 このブログは、
「がんになって残された時間が限られるなら、病とどう向き合ったかを書き残さなければならない」、
「とまどいや悩みを、できるだけそのまま記しておきたい」、と考えて始めた。
 幸いにもがんではなかったが、病とどう向き合ったかをできるだけ率直に書いたつもりだ。
 正確に、詳細に、と思うあまり力が入り、また往来の遅筆もあり、すべての出来事を書き記すことはできなかった。身内からは、とぎれとぎれで読みにくいとの叱責をうけた。読んでくださった方に申し訳ない。
 書き残した内容は、次の3つだ。

●4/18(最初の診察)~4/27(PET検査)
 どこの病院で診察を受けるか悩む。山岳部先輩のM医師やT大病院のO院長のすすめで、順天堂医院を選ぶ。最初の診察で、肺がんの可能性が高いことを告げられた。とまどいながらも、手術を受けることを決めた。

●5/9(PET結果)~5/25(入院前日)
 結核の可能性もあると考えていたなか、95%以上の確率で肺がんと告げられて、衝撃を受ける。M医師とO院長の真摯なアドバイスのおかげで、手術を受ける以外の選択はありえないと、気持ちを落ちつけることができた。手術の日までにやることを決めて、家族と過ごす時間を大切にした。

●5月30日(入院5日目)~6月5日(退院)
 胸のドレーンをはずすのに一進一退する。S教授やM助教に、手術についての質問をした。病室で、3人の肺がん患者の方々と同室になった。

 今回の更新で、このブログはいったん終了することにします。
 この度の出来事について、心の整理がある程度できたということが理由のひとつです。
 再び気持ちが高まったら、不定期に更新するかもしれません。
 これまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。

2011年7月 6日 (水)

影の正体

 前回の更新から、3週間たってしまった。
 6月15日に順天堂医院を受診して、手術の傷が順調に治っていることを確認し、その足で家族の待つ家へ帰った。ラッシュ時の電車に乗るのが心配だったが、すいている車両を選べば問題なかった。

 20日ぶりに自宅で会う妻と子どもたち。みな元気な姿で迎えてくれ、4人で夕食の卓を囲むことができた。
 本当に良かった。
 命の継続を心配することなくここに戻って来られたことが、心の底から嬉しかった。4月15日に腫瘤が見つかってからの2ヶ月間、大波に翻弄されたような家族だった。この日、再び日常に戻ることができたのだ。95%以上の癌からの生還という数奇な運命ではあったが、幸運な巡り合わせに感謝したい。

 この3週間は、たまっていた雑用をこなすだけで時が過ぎてしまった。だが、子どもたちと触れあう時間は、以前にも増して多かったと思う。6ヶ月を迎えたばかりの次男は、とにかく愛らしい。ころころ変わる表情や、かがやくような笑み、そしてこぼれて落ちそうなほっぺたを見ると、食べてしまいたいほどと本気で思ってしまう。
 天使と小悪魔が同居しているような年頃の長男は、留守中特にいい子にしていたようだが、入院したちょうどその頃に円形脱毛症になっていた。妻もあとから気づいて、愕然としたという。突然の父親の病気を知って、幼い心の容量を超えて感情を出すことさえできなかったのだろうか。一時はあきらめかけたが、この子たちの成長を再び見届けられると思うと、感無量だった。
 そして、家の一大事を足を踏んばって支えてくれた妻に、誰よりも感謝したい。病気がわかってから手術の日まで、以前と変わらず僕を信頼してくれた。それが病に立ち向かう大きな力になった。ありがとう、そしてこれからもよろしく。

 この間の特筆すべきことは、手術後1ヶ月となる6月27日に病理診断を聞きにいったことだ。
 手術中におこなった迅速病理診断は、確定的なものではない。手術後2~3週間かけて、切除した組織を顕微鏡や培養試験で調べて、最終的な病気の診断がでるという。手術で肺癌ではないことをほぼ確認したわけだが、この最終病理診断で結果がひっくり返る可能性も0ではないと聞いていた。だから、まさかの事態の覚悟もしつつ、緊張しながら診察室に入った。

 主治医のS教授が説明してくれたのは、以下のようなことだった。
・腫瘤(しゅりゅう)は、癌ではなく、抗酸菌感染症による肉芽種(にくがしゅ、異物などをとり囲む巣状の病変)である
 <手術後には「非定型抗酸菌」と聞いたが、最終診断は「抗酸菌」とのことだった>
・細菌の種類は「不明」だが、強いていえば結核菌だろう
・他の部位での感染はないので、菌を突きつめる必要はない(今後、菌が生えてくればわかるかも知れない)
・今後の化学療法(服薬)は必要ないだろう。次回は9月下旬にCTを撮る

 もうジョギングを始めてもいいし、海外渡航も問題ないとのことだった。
 心底ホッとした。緊張のため体に入っていた力が、空気のように抜けてゆく気がした。病との2ヶ月間の闘いがようやく終わった。

 抗酸菌とは酸性の脱色素剤に抵抗性を示す細菌グループのことで、結核菌と非定型抗酸菌(非結核性抗酸菌)に分けられるらしい。結核菌は人に移るが、非定型抗酸菌は人に移らない。どちらなのかはっきり知りたかったので、「不明」と言われたことは少々残念だった。

 今回の診察でもう1つの大きな成果は、切りとった肺の写真を見せてもらったことだ。
 切除した肺の実物を見せてほしいと手術前にお願いしたところ、細菌感染の恐れがあるので実物は見せられないが、写真ならば見せられるとのことだった。それがようやく叶った。その写真がこれである。

A2s_2                                写真1 切除した左肺舌区 

B2s                                 写真2 腫瘤付近の断面 

B4s_2                                写真3 腫瘤(肉芽種)の拡大写真 

 全体の色が黒茶色なのは、一度空気を抜いた肺を、ホルマリンでふくらませたかららしい。胸腔鏡(内視鏡)で手術中に撮影した肺の写真を見せてもらったが、それはきれいなピンク色だった。
 写真1が、切除した僕の左肺舌区である。肺全体の10%程度というが、実際の大きさは15cm×11cmあるので意外に大きい。そのなかの黄色い線に沿って切断したスライスが、写真2だ。癌と疑われた腫瘤が、矢印の先に見える。
 この写真を見たとき、「死を覚悟させたのは、こんなものだったのか」と拍子抜けするような感覚がした。癌と疑われるものなら、どす黒い毒の塊のようなものかと思っていたが、意外にも白く弱々しかった。

 この腫瘤は、「乾酪壊死巣を有する類上皮肉芽種」と、医学用語ではいうらしい。「乾酪」とはチーズのことで、腫瘤中央にある(細胞が壊死した)白い核のようなものがチーズのように見えることから、「乾酪壊死巣」と呼ぶ。このチーズ状の部分には、まだ生きた抗酸菌(結核菌)がいる可能性があるという。
 肺に抗酸菌が侵入した初期は、免疫作用によって菌を死滅させようとする。だが菌の力が強く死滅させきれないときは、白血球の一種である「類上皮」細胞が、菌を閉じこめて発症を妨げる、いわば次善の策をとるそうだ。その次善の策が完璧にはたらいて抗酸菌を隔離したものが、肉芽種と呼ばれる今回の腫瘤だった。
 「見えない影」の正体が、ようやく明らかになった。

2011年6月14日 (火)

家族の力

 今日で退院から10日目になる。
 この間は小さい子どものいる自宅に帰らず、両親の住む実家で静養していた。この10日間でだいぶ歩けるようになり、床にひいた布団で寝起きができるようになった。数日前までは傷の痛みのため、背を上げ下げできる介護用ベッドでしか寝られなかったのだ。
 実家で久しぶりに両親と生活をともにして、多少年老いた姿も目にしたが、2人がまだ元気だということを確認した。今回のことではずい分心配をかけたが、僕が好きなことを続けられるのは、両親が健康で介護などが必要ないおかげだ。改めて感謝。
 そして明日は、妻と子どもたちが待つ家へ帰ることができる。今回の病と入院でいくつものことを考えたが、そのうちの大きな1つは、自分にとって家族がいかに大切なものかということだった。

■5月29日 (入院4日目)
 手術から2晩目は、座薬の痛み止めを使ったため、痛みも熱も少なく落ちついた夜だった。夜中には、1人でトイレにも行くことができて、これからの入院生活に自信をもてた。
 朝食は、パンと野菜炒めなど。味の組合せが今ひとつだが、お腹がすいていたのでほぼすべて食べる。3日ぶりのまともな食事だった。さらに、前日Aさんが持ってきてくれたサクランボをいただく。「入院のお見舞い」というと独特のイメージがあるが、そのイメージどおりの高価でスペシャルで甘酸っぱい味だった。
 前日車いすで行ったレントゲン室へ、今日は歩いてゆく。その後、熱いタオルで看護婦さんに背中を拭いてもらい、着替えをした。

 その後、研修医がたくさん来て、胸のあたりを触ってゆく。肺の傷から空気漏れがないか確かめたようだ。
 彼らと前後して、呼吸器内科のH医師が病室へわざわざ来てくれた。H医師は順天堂医院で最初に診察をしてもらった先生だ。4回受診してその率直な説明の仕方を信頼するようになったし、だからこそPET検査後に「肺がんの疑いが強くなったので、内科の診察は終了します」と言われたときには、見放されたような寂しいような思いを感じた。
 H医師は、僕と同年代だと思う。教授クラスの先生と違い構える必要がないので、今日もいろいろと質問した。
 「肺がんの可能性が95%以上」と言われたことに触れると、「手術をした結果、がんではない可能性が95%くらいになりました。でも今後の病理診断によっては、がん細胞の見つかる確率は0ではないですよ」と言った。そうか、まだ手放しで喜んではいけないのだなと、気を引きしめる。
 いちばん知りたい「なぜ部分切除ができなかったか」という質問も、ぶつけてみた。「執刀した先生と話をしていないのでわかりません」という答えだった。内科の医師としては仕方ないだろう。それらの答えに不満がないでもなかったが、それよりも、H医師が手術後に再び会いに来てくれたことが嬉しかった。

 午後は、妻と子どもたちがやって来た。次男は手術日にも来たが、4歳の長男と会うのは入院後初めてだ。
 4歳というと幼いと思うかもしれないが、言葉が未熟なぶん感受性が鋭く、大人同士が話している内容を言葉と雰囲気の両面からかなり察知している。今回入院するにあたっては、手術やその後のことをできるだけ隠さず長男に話すようにした。入院前に、「話したいことがある」と切り出したときにはビクッとしていたが、手術を受けたら必ず治るというと、少し安心したようだった。
 この日も、自分の状態をできるだけ見せておきたいと思って、手術の傷の写真を見せたのだが、大きな傷跡は恐かったようで一目見て後ずさりした。保育士の妻も「子どもにはショックよ」と言ったが、この弱った状態から回復してゆく過程を、途中の苦しみも含めて見せておきたいと思った。
 幼い子どもに、なぜそこまでしようと思ったかというと・・・、
 肺に影が見つかったとき、自分はもう子どもたちとの約束を守れないのかと嘆き、悲しさと悔しさがこみ上げた。その後診察を重ねて、肺がんの確立がどんどん高まっていったが、僕の気持ちは逆に落ちついてゆくようなところがあった。子どもたちの顔を見ていると、自分が病気で死ぬわけがないと思うようになったのだ。
 天真爛漫で、小悪魔のようで、天使のようで、泣き虫で・・・。生命力にあふれた2人の我が子と一緒にいると、その無限の力が自分にも伝わってくるような気がした。そして、この子たちを残して自分だけいなくなるようには、この世界はできていないと、勝手に思っていた。甚だ身勝手な考えだっただろう。そうでない悲惨なケースが、世の中には多くある。
 だが結果的に、その思いが肺がんと宣告された僕を支えてくれた。つまり、子どもから生きるパワーをもらったのだ。自分の力だけで生きてゆけるとどこかで思っていた僕にとって、それはかけがえのない経験だった。
 病室のベッドに座っていると、長男がすりよってきた。胸から出ているチューブに引っかかるのが恐かったが、ベッドの上でしばらく一緒に座った。「ありがとう、あさひ、すばる」

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 しばらくすると、毎日新聞の連載でお世話になっているTさんご夫妻も見舞いに来てくれた。死ぬような病はいやだが、自分が多くの人に支えられているのを気づかせてくれることもある。
 その後、長男は病院の雰囲気に息苦しさを感じたのかダダをこね始め、次男は暑がって泣き始めた。そろそろ子どもの限界と、みな帰っていった。
 夜が近づくと、また38℃台の熱が出てきた。開胸手術からまだ2日しかたっていないのだ。看護婦さんに相談すると、退院後の生活を考えるなら座薬はなるべく使わないほうがいいという。今晩は我慢できそうな気がしたので、使わずに寝ることにした。

2011年6月13日 (月)

チューブがはずれる

 リハビリのために散歩する速さが、少しずつ速くなってきた。胸のなかの刺すような痛みも収まってきて、今日は手術後初めて痛み止めを飲むのをやめた。
 肺を締めつけられるような違和感はまだ強く、元の体に戻るまではほど遠いが、1日ごとに回復する実感がある。
 4年前に赤ん坊が生まれたとき、日々成長する力に驚いた。そのとき、自分は最近成長していないとため息をついたが、今回、成長にも似た回復力が自分にまだ備わっていることを知って嬉しくなった。これならば半年後にはヒマラヤ行きを再開できるかなどと考えたりしたが、早計だろうか。。

■5月28日 (入院3日目)
 長い夜が明けた。
 7時前、寝たのか寝てないのかわからない状態でいるのを看護婦さんに起こされて、検温と血圧測定をした。続けて、脚のつけ根の動脈から採血する。背中と肺は変わらず痛むが、息ができないような圧迫感はいく分和らいだような気がした。
 その後若い医師がやってきて、「今日からベッドの背を上げて座りましょう」と言いながら、有無を言わさず電動スイッチを押した。何の心構えもなかったので「え~っ!」と驚くが、実際にベッドの背が上がると、それほど痛みもなく座る姿勢になれて安心する。
 「次は水を飲みましょう!」
 事前には聞いていたが、胸が痛いのに飲めるのかと怖気づく。小さな水差しを差しだされて、おそるおそる口に含むと、少量を2口飲みこむことができた。手術前の説明では、手術後1日目の今日から食事をして、歩かなければならない。傷もくっついていない体で、そんなことができるのだろうか。

 しばらくすると可愛い看護婦さんがやってきて、パジャマに着替えましょうという。そういえば手術着を着たままだが、自分1人では着替えられそうもない。まだ20代前半の看護婦に、手とり足とり着替えさせてもらうしかなかった。パンツはどうするのか戸惑っていると、彼女は何の躊躇もなくT字帯(ふんどし)を外してパンツを履かせてくれた。こちらが恥ずかしくなる。よりによって昨日履いていたヨレヨレのパンツしか見つからず、情けない。
 その下着を履くときに、必要に迫られて初めて立った。体につながれたさまざまなチューブを気にしながら、足をベッドの下に下ろして、体重を少しずつ足にかけてゆく。看護婦が「すごい!」と言ってくれて、ちょっと自信がでた。
 その後、人生初めて車いすに座らされて、レントゲン撮影へ。車いすに乗るのは気恥ずかしかった。

 病室に戻ると今度は男の看護士が来て、「必要なくなったものを外してゆきましょう」と言う。まず、鼻についていた酸素チューブをとり、両脚に巻かれていたマッサージ器具を外す。そして、尿道から膀胱まで入っている管も抜くと言う。抜くとき痛いのではないかと身構えたが、「深呼吸をしてください」と言われて息をはく間に、スルッと抜いてくれた。あそこが痛くなるのは情けないし辛いと思ったが、心配なかった。それよりも男の看護士が来てくれてホッとした。

Dsc00867ss_2               背中の傷口  左脇腹には胸内部からのドレーン、背中中央上には脊髄に刺しこまれたチューブ

 昼食は、他の患者と同じ一般食がだされる。大盛りチャーハンにおかず2~3品だったが、チャーハンを数口とおかず1口しか食べられなかった。残念。手術直後はお腹がすいて、グーグーなっていた記憶があるのに。

 今日は、知人が見舞いに来る日だ。昨夜うなっていたときは、見舞いに来られても何もできないと心配したが、今なら少しぐらいは対応できそうだ。
 午後2時に、見舞い客2人と父がやってきた。2人のうちのPは、京都の大学に留学するチベット人の女の子。遭難した友人を探すために通った中国の梅里雪山に、彼女の故郷がある。彼女の父と僕は友達で、3年前に来日してから面倒を見てきた。もう1人のTは、山岳部の後輩だ。2人とも、京都から夜行バスで来てくれた。わざわざ来ることないと言ったが、平坦ではなかったPの日本での3年間を思うと、彼女の気持ちが嬉しかった。がんでなかったことを話すと、喜んでくれた。
 話をしていると看護士がやって来て、「トイレへ行ってみましょう」と言う。歩くのは初めてだ。今朝同様に慎重に立って、おそるおそる足を前に出す。傷の痛みや体につながるチューブのため、自分でも信じられないほど遅くしか進めないが、トイレまでの数十mを自力で往復できたことは、自信になった。
 戻ると、心電図と指先のモニターを外してくれた。少しずつ身軽になってゆくのが気持ちいい。
 4時過ぎには、入院初日に来てくれたAさんが再びやってきた。しばらくみんなで話をしていたら、熱が上がって頭がボーっとしてきた。まだ無理はできないということか。話をする気力がなくなりベッドに横になっていると、みな帰っていった。

 しばらく大人しくしていると看護婦がやって来て、両脚に履いていた血栓予防用のきつい靴下を脱がせてくれて、手術後ずっとつながっていた点滴も外してくれた。点滴用の針は腕に刺したままだが、大物が1つ外れた感じで嬉しい。手術後1日目で、7つものものが体から外れた。残るは、背骨に入った痛み止めチューブと、胸から体液をだすためのドレーンである。

 夕食は昼よりも食べたが、それでも全体の2~3割だけ。2日間、ほとんど食べなかったことになる。
 夕方上がった熱が下がらず、胸の痛みも増してきた。
 夜には、S教授が病室へ来てくれる。ベッドを離れてどんどん歩くことで回復も早まると、アドバイスをくれた。「なぜ部分切除にならなかったか?」という疑問は解決していないが、熱がある状態では、今晩も尋ねることができなかった。

 消灯時間が近づくにつれて、また辛い夜の再来かと恐ろしくなる。看護婦に相談すると、痛み止めの座薬を入れましょうと言ってくれた。人生初の座薬を、女性の看護婦に入れてもらう。昼間のうら若い看護婦ではなく、経験ある頼もしい感じの人だったので助かった。
 この夜は、座薬のおかげで、前夜とは比較にならないほどよく眠ることができた。

2011年6月11日 (土)

肺の10%切除

東日本大震災から3ヶ月。
あの地震と津波の日から、自分はどう変わっただろうか。

■5月27日 (入院2日目=手術日) つづき

・・・・・・

 目の前の狭い範囲が、明るくなってくる。
 が、焦点が定まらず何も見えず、体も動かない。
 -これはきっと夢だな-、と思う。
 -手術が終わったにしては早すぎる-、とも思う。
 意識が少しずつ戻ってくるような気がする。だが、体は動かない。
 -夢だよな。でも、もしかしたら夢じゃないのか?-
 しばらくすると、周りの物音が聞こえてくる。
 -やっぱり夢じゃない。ずいぶん早いけど、どうしたんだろう?-
 周りの人に聞いてみようと思うが、声が出ない。
 口を動かすためにもがいていると、ようやく力が入った。
「いま何時ですか?」
 夢かどうか確かめるために、聞いた。
「12時半です」
 手術室に入ってから、4時間がたっていた。
 いちばん知りたいことを尋ねる。
「がんだったのですか?」
「がんではなかったようです」
 -そうか!、やっぱり-
 自分の感覚がやはり正しかったと思ったが、嬉しいとは思わなかった。それよりも、気になっていたことを尋ねた。
「どれくらい切ったのですか?」
 腫瘤だけを小さく切ったはずだと期待した。
「(左肺上葉の)舌区を切りました」
 -えっ! がんでないのに、なぜそんなに大きく切ったの?!-
 ショックだった。
 -がんでない場合は、腫瘤だけの部分切除ではなかったのか!-
 -いったい何が起こったんだ?-
 呆然とした。
 まだよく動かない頭のなかで、「なぜ? なぜ?」と自問した。
 左肩甲骨のあたりに、強い肩こりのような痛みを感じ始めた。

 そのうちベッドが押されて、広い部屋に移る。首が動いたので周囲を見ると、患者が横たわったベッドが何台も並んでいた。
 しばらく待つと再び動きだして、ベッドごとエレベーターに乗りどこかへ連れてゆかれた。
 見覚えのあるカウンターを通ったなと思ったら、病室のドアが目に入り、その前に満面の笑みを浮かべた妻の顔があった。
 -そうか、がんじゃなかったことを喜んでいるんだな-
 人ごとのように思った。
 一緒にいた0歳の次男も、目をぱっちりと開けていた。
 今朝までいた病室に戻る。そういえばいつの間にか、手術台ではなく病室のベッドに寝かされていた。しばらくすると移動式のレントゲンがやってきて撮影する。それが終わると、両親や妻たちが部屋に入ってきた。
「いやー良かった、良かった!」
 父が嬉しそうに言う。
「緊張の糸がきれたわよ」
 母も言った。
 みな、がんでなかったことに心から安堵していた。
 僕はぼそりと言った。
「がんじゃなかったのに、なぜ大きく切られたんだ?」
 妻が驚いた声で、「不満なの?」と聞いた。
「がんでなかったら最低限の切除にすると言っていたんだ・・・」と僕は答えたが、家族はみな、そんなことよりがんでなくて良かったと喜んでいた。
 両親らが手術後に聞いた話によると、腫瘤は「非定型抗酸菌」によるものだったらしい。聞いたこともない名前だ。妻は、それが子どもに移るものかどうかを気にしていた。
 左胸と背中の左側が、だんだんと痛くなる。傷口から遠いところから麻酔が切れてゆくため、周辺部から痛みがおそってくる。肩こりのような痛みは、腕を上げて横向きの姿勢で手術を受けたためらしい。麻酔が切れるとともに、だんだん寒くなってきた。家族は「暑いくらいよ」というが、動かない体が震えるほど寒い。看護婦さんにいうと、電気毛布を持ってきてくれた。
 1~2時間して、「非定型抗酸菌」が人に移るものではないことがわかると、両親と妻たちは安心して帰っていった。

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 1人になると、時間のたつ速さが急に遅くなる。
 ときおり看護婦さんが来て、傷口を見たり点滴の液を変えたりするが、ほかには何も変化がない。痛みがだんだん増して、熱も出てきた。
 胸のなかに管が入っているはずだが、患部は感覚がないのでよくわからない。鼻には酸素のチューブが当てがわれて、胸や指先にもセンサーがつけられ、右手首に点滴の管が入り、背骨には痛み止めを直接注入するチューブが刺しこまれている。さらに両脚には、血栓予防のためのマッサージ器具が巻かれて動いている。
 尿道の先が痛いような引っかかったような違和感があったので見てみると、なんと細い管が入っていた。
 -えーっ、こんなこと聞いてない!-
 今さら驚いたところで、あとの祭りである。トイレにも行けないのだから仕方ない。
 体に多くのチューブがつながっていると思うと恐怖だが、今はそれよりも肺が切りとられた衝撃と痛みに耐えることが先決だった。
 寝ようと試みるが、なかなか寝られない。それでも何度かうとうとすると、窓の外が暗くなってきた。雨が降っている。今日が梅雨入りらしい。
 ひとり窓の外を見ていると、中学校剣道部の先輩だったD医師が入って来た。
 がんでなかったことを「よかったね」と言ったあと、
「またトレーニングすれば、元の体に戻るから」、と言ってくれた。
 痛みに同情するような、申し訳なさそうな顔をしていた。
 そのときはDさんが何を言いたいのかわからず、わざわざ病室に来てくれたことがありがたくて、「はい、はい」と返事をするだけだった。

 すっかり暗くなってから、再びドアの開く音がしたので目を開けると、執刀したS教授が1人で来てくれた。
 がんではなく非定型抗酸菌らしきものが見つかったこと、肺全体の10%にあたる左肺上葉舌区を切除したこと、診断が確定するには数週間必要なことなどを話してくれた。
 「がんではなかったのに、なぜ舌区を全部切除したのですか?」と尋ねたかったが、熱と痛みにやられた体では、質問するエネルギーが出なかった。
 S教授が帰ってしばらくすると、消灯時間になった。

 背中が痛くて、苦しいのに、寝返りも身動きもできない。こんなことで夜を越せるのだろうか。
 1時間毎に時計を見るが、その度に朝が遠いことを確認してがっかりする。

 真夜中にナースコールをして、看護婦さんに来てもらった。背中が潰れるような感覚におそわれたので、寝返りをさせてもらった。だが半身になるのも辛いので、あまり改善しない。
 看護婦さんがいなくなると、再び、痛みに耐えながら時間がたつのを待った。ボーっとする頭で、「なぜ部分切除ではなかったのか」と、何度も考えた。
 朝は、まだまだ先だった。
 長く、辛い夜だった。

2011年6月 9日 (木)

手術室へ

 手術から2週間たった。
 リハビリのための散歩は、ほんのわずかだが歩く速さ速くなり、初日は止まっているように見えたであろう歩みが、今日はゆっくり歩いているように見えたと思う。だが、前かがみになると胸のなかを針で刺されるような鋭い痛みは、まだ消えない。

■5月27日 (入院2日目=手術日)
 6時起床。ある程度眠ることができたので、目覚めは悪くなかった。
 1ヶ月前に手術日が決まってから、今日に向けて心と体調を整えてきた。それがうまくできたと思う。

 1つやり残したことがあるとすれば、遺言を書けなかったことだ。財産はないに等しいので不要といえば不要だが、わずかではあるが手術失敗の確率や、手術中に大地震がくることを考えると、家族への思いを書き残しておきたかった。だが、書く時間がもてなかった。おそらく、手術中の事故などありえないと思っていたのだろう。
 僕には不思議な自信がある。かつて中国の登山で17人の仲間を亡くしたことがあるのだが、それから10年以上彼らの遺体を捜し続けて、そのほとんどを収容した。捜索のために危険な氷河を何度も歩いたが、自分は17人に守られているから、不慮の事故に遭うことはないと信じてきた。
 今回もそう思うのだ。もし癌ならば、そろそろ彼らに呼ばれたのだろうと思うが、その過程で不測の事故によって死ぬことはないと思いこんでいた。

 7時過ぎ、手術に立ち会うため両親がやってくる。70歳手前の2人はまだともに元気だが、今回のことで寿命を縮ませてしまったのではないかと申し訳なく思う。登山事故で子どもに先に死なれた親を何人も見てきたが、自分の親もそうさせてしまうとは・・・。

 手術中に便が出ないように、昨夜下剤を飲んだ。だがなかなか便意が来ないので、トイレに行ってしぼりだす。
 そのあと看護婦さんに手伝ってもらいながら、手術着に着替えた。T字帯というふんどしのような下着をつけ、2枚のバスタオルをマジックテープで合せただけのワンピースを身にまとう。それだけだ。すぐに裸になれる格好である。最後に、血栓症(エコノミークラス症候群)予防のためのストッキングをはいた。
 まだ部屋を出るまで時間があるので、体操をする。手術に向けて、一段ずつ階段を上るように集中していった。

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 8時20分、別の看護婦さんがやってきて、手術室へ向かうことを告げられる。どうやって行くのかと思ったら、当たり前のように自分の足で歩いていった。大きな入り口の前で両親に挨拶をして、母の求めに応じて握手をする。母と握手をするのは初めてだった。

 入り口のなかは待合室のようになっていて、その奥にいくつもの手術室があった。これから手術を受けるのだろう患者さんが何人もいた。5~6歳の女の子もいた。自分が怖気づくわけにはいかないと思った。
 しばらく待っていると、ついに名を呼ばれた。再び歩いて手術室へ入った。
 なかは意外に広く、そして雑然としていた。中央に、小さな細いベッドがあった。そこへ自分で上がって、仰向けになった。
 冷静さを装っていたが、これからどのような手順で何をされるのか細かくは聞いていない。今さらじたばたしてもどうしようもないと思う一方で、底知れぬ不安を感じていた。
「落ちつけ、落ちつけ」、と自分に言い聞かせる。
 頭上には、電球がいくつも埋めこまれた照明があった。ドラマなどでよく見るが、全体の直径が1m近くもあって思ったより大きい。周りには、器具などの準備をしている人が5~6人いた。手術室のなかはクーラーがきいていて、寒いほどだった。

 やがて助手のような人が何人か近づいてきて、心電図のモニターや血圧計をつけて、点滴の針を右手に何本か刺した。普段なら痛いだろうが、これから始まる手術のことを考えると、些細なことにしか思わない。
 そのあと、昨日会った麻酔科の若い美人の先生がやってきて、昨日の説明どおりに脊髄に針を刺し、麻酔の管を差しこんだ。1度目はうまく刺さらなかったようで、隣の偉い先生と話しながらもう1度針を刺し直した。不安だった。

 そこまで終わると、仰向けの楽な姿勢に戻った。
 やがて、「マスクをつけます」という声が聞こえた。
「これで眠ってしまうのですか」と問うと、「はい、そうです」という答えとほぼ同時に、マスクが口に当てがわれた。口の上に軽く置かれただけだったので、もっと密閉しないといけないのじゃないかと思っていたら、頭が軽くしびれるような感覚におそわれた。マスクをつけてから、10秒ほどしかたっていないだろう。
 その直後、何も考える暇もなく、意識がなくなった。

・・・・・・

2011年6月 7日 (火)

手術前夜

 退院して3日目。
 手術による背中の傷口は落ちついてきたが、肺のなかの傷は咳をするとまだ痛む。
 昨日から、リハビリテーションのために散歩を始めた。息が上がると肺が痛みそうなので、信じられないほどゆっくり歩く。1周1km弱の池の周りを30分かけてのろのろ歩くだけだが、自分の足で外の世界を歩きまわれることが嬉しい。

 入院の話に戻ろう。

■5月26日 (1日目)
 入院前夜は遅くまで雑用を片づけていて、3時間しか寝れなかった。
 朝8時前、容量55Lの登山用ザックに着替えや洗面具・パソコンなど詰めこんで、担いで出発する。これから肺がんの手術を受ける人間だとは、誰も思わなかっただろう。

 9時過ぎ順天堂医院に着いて、9階の病室へ。広くはないが、冷蔵庫や洗面台など一通りそろった居心地のよさそうな部屋だ。
 前日の連絡では1日4万円!の個室に入れられそうになったのだが、頼みこんで安い病室を探してもらい、ハイケア室と呼ばれるこの部屋に入院させてもらえることになった。

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 助教のM医師から手術の説明を受ける。
 左肺の上葉にアプローチするため、背中左側を肋骨にそって15cmほど切開し、さらに胸腔鏡を入れるため小さな穴を別に開ける。僕の左肺上葉は普通の人と違い、上区と舌区の2つに明瞭に分かれているらしい。その上葉の舌区にある直径18mmの腫瘤を取りだして、顕微鏡で観察し迅速病理診断をする。そのために、
①可能であれば、腫瘤周辺部のみの「部分切除」をおこなう、
②動脈に近い等の理由で部分切除が難しければ、舌区全てを切除する「区域切除」をおこなう
とのことだった。
 そして、がんであればリンパ節を含めて侵された部分をすべて切除し、がんでなければ傷口を閉じて終了となる。
 がんならばどのように切りとるかはお任せするしかないが、もしがんでなければ切除範囲をできるだけ小さくしてほしい希望を再度伝えた。
 M医師は、「95%はがんでしょう」と言った。

 その後レントゲンを撮り、採血をする。
 採血は、パンツを下ろして、足のつけ根の動脈からとった。太い注射を刺された痛みと、陰毛のかたわらの注射器にたまってゆく深紅の血液を見て、自分が明日手術を受ける患者であることを、改めて実感した。
 しばらくすると、先ほど採血をした医師とは違う人が来て、採血をやり直させてほしいと言う。もう1度注射を刺されて、血を採られた。そんなことが2度あった。1度目は撹拌が遅れて血が固まってしまったという理由で、もう1度は測定機が壊れたという理由で。最初に採血した医師は大学院生かと思うが、緊張感のない医療行為は、明日手術を受ける患者を不安にさせる。

 昼は父と2人で外出し、御茶ノ水の’山の上ホテル’の料理屋へ。すべての肺がある体での最後の食事だと思い、天丼セット4,200円を注文した。むろんおいしいが、明日のこの時間には肺の一部がなくなっていることを思うと、とても貴重なものを食べている気がした。

 午後は、看護婦さんや麻酔科の医師など何人もの方が次から次へと病室へやってきて、説明を受け、同意書の署名など求められた。
 早い時間に風呂に入り、手術のために左の脇毛を剃る。
 5時過ぎ、病室の整理などしていると、山岳部の先輩2人がやってきた。入院のことは最低限の人にしか伝えていなかったので、びっくりする。ある人に伝えた内容が回り回って、伝わったのだという。わざわざ来てくれたことが嬉しくて、いろいろな話をした。

 夜はネットをつなげるためにバタバタして、9時の消灯時間にようやく落ちついた。
 病室のベッドに横たわったときは、平穏とまではいかなかったが、それほど高ぶった気持ちでもなかった。

 手術は不思議である。手術を受けると言うと、「頑張って」といわれることがあるが、手術中は眠らされるだけで、その間に自分が努力することは何もない。
 手術のために頑張ることは、手術前にほぼすべて終わっている。
 予期しない病気に驚き嘆き、病院選びや治療法の選択を思い悩み、数々の検査を受けて一喜一憂し、風邪を引いて免疫力を落とさないよう気を使い、手術までの日々に何をすべきか考えて実行する。直前10日間は毎日ランニングをして、明日からヒマラヤへ行けるほど体調はよかった。だから、やるべきことはすべてやったと思えていた。それが、多少なりとも落ちついた気持ちでいられた理由だろう。

 9時半過ぎ、うとうとする。
 翌朝までに何度か起きたが、前夜の睡眠不足を解消する程度には眠ることができた。

2011年6月 5日 (日)

還りました

 本日、退院しました。

 元気です。

 ブログをご覧になってくださった方、ご心配をおかけしました。

 5月27日に、肺の摘出手術を受けました。術中に腫瘤を生検した結果、がん細胞は見つかりませんでした。腫瘤は(結核の仲間である)非定型抗酸菌によるものだろうとのことですが、正確なことは数週間後に確定します。

 肺がんの場合と同じ肺葉切除の手術を受けたので、傷口は傷みますが、がんではなかったことに心から安堵しました。

 と同時に、がんではないのになぜ肺の10%を切除せざるをえなかったのか、その意味を考えています。

 しばらく実家で静養しながら、手術のこと、11日間の入院のことなど書いてゆきます。

Dsc00824ss                                    手術の翌日

2011年5月26日 (木)

行ってきます

 いまは5月26日午前3時。

 前回の続きを含めて書きたいことはいろいろあったのですが、明後日(5/27)の手術に備えて寝なければなりません。

 体調も精神状態もいいと思います。

 6時間後の9時過ぎには病院について、入院手続きをします。

 行ってきます。

2011年5月18日 (水)

95%以上の確率

 5月27日の手術まであと10日をきった。どれほど不安な日々を送るだろうと思っていたが、この1週間ほどはだいぶ落ち着いている。 手術を受けることは仕方ないと、あきらめることができたからだ。それは、知人の医師の方々が真摯なアドバイスをくれたおかげだった。それを 書いておきたい。

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 5月7日、咳を治すための抗生剤を3日分もらった。もし肺の影が感染症に起因するなら、抗生剤を飲むことで影も小さくなるかもしれないと聞いたので、3日分を2日で飲んでしまった。

 5月9日は、朝から順天堂医院へ。咳はだいぶ治まった。造影CT検査(造影剤(X線を通過させにくいヨウ素を含む液体)を静脈注射 しながらのCT)をうける。この1ヶ月間にCTを受けるのは3回目だ。震災後は1μSv/hの被爆を気にしていたのに、この3回で何万μSvの放射線を浴びたのだろう。
 その後すぐに、呼吸器内科のH医師の診察を受ける。待ちに待ったPETの検査結果が出ているはずだった。PETが陰性だったら 、結核QFTの陽性とあわせて、結核の疑いがでてくる。診察を受ける前の僕は、きっとそうなると信じこんでいた。
 H医師はこう切りだした。
「・・・造影CTを見るまでもなく、残念なことにですね・・・、(PET検査によるブドウ糖の)この集積は肺ガンを強く疑います。・・・」
 えっ?、「残念なことに」?、いったい何が起きたんだ? わけがわからず、思考が停止してしまった。
 PETで仮に陽性になったとしても、それはこれまでのガンの疑いを追認する程度だと思っていた。だが、H医師の口調は違っていた。 ガンの可能性がかなり強まったという。PET結果のどこからそれがわかったのか質問したが、よく理解できなかった。
 さらに悪いことに、肺門(肺の入口)近くのリンパ節への転移も疑われるという。なんということだろうか! それではガンの病期の初期(Ⅰ期)ではなく、Ⅱ期になってしまうではないか。Ⅰ期とⅡ期では生存率に大きな差があることを、本で読んでいた。
 わかりやすい言葉がほしくて、こう聞いた。
 「何割ぐらいの確率で、ガンなのでしょうか?」
 「もう95%以上です・・・」
 それを聞いて、初めて事の重大さがわかった。それ以上質問する必要は、なくなった。
 H医師は言った。
 「これで‘内科の診察’は終了します」
 この病院で最初に診てもらったH医師をできるだけ信頼しようと思って、これまで通院してきた。その医師に見放されたような、裏切られたような思いがした。あっけない「終了」だった。全身から力が抜けてゆくようだった。

 その後、呼吸器外科のS教授の診察を待つ。S教授の診察は2回目だが、今日も20人以上の患者が待っていた。有名な医師なのだ。ようやく順番が回ってきて、あわてて診察室へ入った。
 S教授はPETの結果を見ながらこう説明した。
「基本的に肺ガンですね、やっぱり」
 その理由の1つは、腫瘤付近のSUV(Standard Uptake Value:標準摂取率)という値が7.8もあるからだという。通常の細胞はもっと低く、1.5以上あるとガンを疑うらしい。肺門近くのリンパ節のSUVは2.5程度で、やはり転移の可能性があるという。
「ガンでないという画像ではないし、極めて典型的というわけでもない。これ以上はいくら議論してもしょうがないのです。胸を開いてみなければわからない。治療戦略上のオプションはあまりないですよ」
 さらにこうつけ加えた。
「手術でⅡ期かⅢ期かを確かめます。そしてきれいにとることです」
 Ⅰ期かⅡ期かではなく、Ⅱ期かⅢ期!かなのか。それが現実なのか。Ⅲ期の生存率は3割程度しかない。
 僕が不安な顔をすると、
「手術は私がやります。できるだけ山の仕事が続けられるように配慮しますよ。(ガンの確定診断をするための)生検はできるだけ小さくとります。1年以上かかるでしょうが、山にも復帰できると思いますよ」
と言ってくださった。
 手術までのあいだ検査が続くのだろうと思って聞くと、
「ほかの検査はいりません。もう手術まで来なくていいですよ」とのことだった。
 肺を切る手術をするというのに、ずいぶん簡単なものだ。4回診察を受けたH医師は多少信頼できるようになっていたが、2回の診察で数十分話をしただけのS教授を信頼しろというのは難しい。本当にこのまま手術なのかと思っているうちに、診察は終わってしまった。
 待合室で呆然としていると、セカンドオピニオンについて何も話さかったことに気づく。看護婦さんに事情を話して、もう一度診察室へ入れてもらった。
 S教授は言った。
「セカンドオピニオンを受けても迷うだけで、お薦めしません」
 たくさんの患者さんが待つなか、多くの言葉を使ってその理由を説明してくれた。だが、「心配なら紹介状を書きましょう」とは最後まで言ってくれなかった。それが患者を思う本心からなのか、別の理由からなのか、肺ガンという宣告をされた僕にはわからなかった。
 診察費はすべてあわせて、3割負担で10,100円。こちらに選択権はなく、言われた金額を払うだけだ。高いか安いかもわからない。

 フラフラしながら病院を出る。気持ちを落ちつけたくて、途中のベンチに座りこんだ。ジュースを飲みながら30分近くボーっとした。「アーッ」とか「ウーッ」とか、ため息交じりの声を何度も上げていただろう。脱力感で立ち上がれなかった。
 1時間以上かけて帰宅すると、すっかり疲れていた。妻に簡単に報告して、現実から逃れるように布団に入った。

2011年5月11日 (水)

ガンなのか結核なのか

 連休は、次男の4ヶ月の誕生日をみなで祝うため、千葉の実家に帰った。
 日常生活はなんの問題もないのだが、咳がつづいている。痰も出るようになった。熱はないので、ガンか結核の自覚症状が出てきたのではないかと不安になる。
 夜はひとり別の部屋で寝るようにしていたが、子どもたちも同じような咳をコンコンとし始めた。変な病気をうつしてなければよいが。特に、赤ん坊の次男が心配だ。

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 実家でとっている読売新聞で、「がん共生時代 こころ」という連載を読んだ。ガンという特殊な病気がもたらす心の病を見つめたものだ。自分もいつか、ガンがきっかけでうつ病になる日が来るのだろうか。
 その記事をネットで検索すると、読売新聞の医療関係の記事を有料で掲載しているヨミドクターというサイトを見つけ、そのなかにCT検診のうつしすぎる功罪についての記事があった。
 「CT検査による肺がん発見率は、X線検査の4、5倍に達する。その検出力の高さが逆に、不利益も生んでいる」という内容だ。「CT検診では、2~3割の人に何らかの異常が見つかるが、大半は、肺炎や結核が治った後の痕跡など良性の病変だ」という。僕の肺に見つかった影もそうではないだろうか・・・。
 だがもしガンではなく結核だとしたら、子どもたちにうつしてしまった可能性もあり、素直には喜べない。診断がつかないというのは、なんと悩ましいことなのか。
 翌5月7日は、10日ぶりに順天堂医院での診察日だ。ガン細胞の有無や転移を調べるPET(Positron Emission Tomography:陽電子放射断層撮影)検査や、結核感染の有無を調べるQFT(QuantiFERON-TB2G:クオンティフェロン)検査の結果が出る。ガンの可能性が高いのか、それとも結核の可能性があるのかという診断に、一歩近づく。診察前日は、不安とかすかな期待で興奮した。

 5月7日、順天堂大学医学部附属・順天堂医院の呼吸器内科でH医師の診察を受ける。
 QFT検査は陽性で、結核の感染の疑いがあるとのことだった。だがこの検査では、いま結核に感染しているのか、過去に感染したのかはわからないという。肝心のPET検査の結果は、連休を挟んだためまだ出ていなかった。がっかりした。
 咳や痰がでて胸も少し痛むことを話すと、胸部のX線撮影を行い、結核菌を調べるための痰もとった。X線撮影の画像はすぐに出たが、結核を疑う病巣や、最初に見つかった影(腫瘤)の増大などは見られなかった。いま出ている咳は肺の影に由来するものではなく、気管支炎だろうとの診断だった。子どもたちに、よくわからない感染症をうつしてしまったという心配は消えた。
 H先生は、気管支炎を治すためということで抗生剤をだしてくれた。もし肺の影が(発症していない)感染症によるものならば、影が小さくなる可能性もあるという。2日後に予定しているCT検査までに効果が出るかわからないが、希望が持てる話だった。
 結核の話が続いたので、自分はもしかしたらガンではなく結核などの感染症ではないかと楽観的に考えるようになってきた。

 診察後、順天堂医院のなかで別の医師にお会いした。その方は、中学校の剣道部で1年上の先輩だったDさん。循環器内科の心臓疾患専門の准教授になられていた。Dさんが順天堂にいることを知ったのは、まったくの偶然だった。その1週間前に、中学校剣道部の同期のKが28年ぶりに連絡をくれたのだ。そのやりとりで判明した。なんとタイミングのいい出会いなのだろうか。
 そんなことを考えていると、もう1つの不思議な出会いを思いだした。今年の1月に、ラジオで俳優の菅原文太さんと対談する機会をいただいた。77歳の菅原さんは4年前に膀胱ガンを患い、入院治療の末に仕事に復帰した。お会いしたときはただ感激したが、いま思うとあの出会いは、何かを暗示していたのではないかと思う。
 Dさんは、昔の面影そのままだった。優しく温厚ななかにも芯のある雰囲気で、こんなお医者さんに診てもらったら安心できるだろうなと思った。僕の病気とその治療について真摯なアドバイスをくださった。
 「こんな仕事をしているとね、若くして死んでゆく患者さんを見ることが少なくないんだ。そんなとき、自分が生かされているということを強く自覚するよ。君もできるだけ早く治療した方がいい」
 僕も好きな登山で、多くの友人を亡くした経験がある。Dさんの言葉は重かった。

2011年5月 1日 (日)

肺ガンとは

 昨日は、長男が通う保育園の親たちとのバーベキューパーティー。
 7家族30人近くが集まったが、僕の病気のことは誰も知らない。どんな顔をしたらいいのかとまどうが、体はいたって健康なので、何の問題もないように振るまった(と思う)。
 だが1日中外にいて、前々日から引き始めた軽い風邪が、少し悪くなった感じだ。
 こんな気候のいい時期に、風邪を引くのは珍しい。ときおり咳がコンコンとでる。肺が苦しい感じもする。精神的なもののような気もするが、やはり肺になにか問題があるのかと不安になる。
 気になるのは、結核などの感染症の可能性が0ではないと言われていることだ。医師からは、もし感染症だとしても排菌(菌を排出して人に移す)するレベルにはなっていないと言われたが、0歳の次男を含めて参加者には子どもが多いので気になる。マスクは手放さなかった。
 今日はさらに咳が増えて、胸がつかえる感じもはっきりするような気がする。いったい自分の身になにが起こっているのか・・・。

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 話は戻る。
 CTで肺に影が見つかった日(4/15)はショックだったが、もうひとつ実感がわかなかった。体調には何の問題もなくぴんぴんしているのに、本当に大病なのだろうか。病院の帰りに寄った店で、預かったCT画像の大きな袋を置き忘れてしまった。
 帰宅するとまず、大学同期の医師Lに事情をメールした。

”お医者さんとして教えてほしいことがあってメールします。・・・がんの可能性が高いのだろうか?・・・
肝臓は心配していたが、肺はまったく無警戒だったのでショックです。
42歳、現実は受け止めなければ・・・。”

 Lの答えは、
”・・・肺は専門外なので、週明けに呼吸器内科の専門医に聞いてみます。・・・この段階ではなんとも言えないというのが妥当な所かな。また連絡します。あまり心配せんように。”

 病院から預かったCT画像を全部見せてと言ってきたので、翌日(4/16)写真に撮って送った。
”Lへ
返事をありがとう。
「あまり心配せんように。」という言葉だけで救われる。・・・”

 ネットで肺ガンについて調べてゆくと、他の臓器のガンに比べて発見しづらく、診断もしにくく、死亡率の高いガンであることがわかってくる。手術で腫瘍を切除する場合、初期の場合でも肺の最低4分の1を切除しなければならないようだ。なんと恐ろしい病気になってしまったのか。調べていると左胸がつまるような、痛いような気がする。
 CTを撮った病院で紹介されたのは、最寄のS大学病院。だが、あまり聞いたことのない名だ。肺ガンの治療で実績のある病院は東京・神奈川にいくつかあるが、紹介状を書き直してもらってもいいものだろうか。
 相談する人を探すため、大学関係やこれまで接点のあるお医者さんの名を書き出してみた。全部で30人以上いるが、呼吸器の専門はいない。

 翌4月17日、L医師からメールが来る。
”・・・癌と聞くと、不治の病、末期などへとイメージがすぐに飛躍してしまいがちだが、早期のものから末期まで幅が大変広いので、早期に見つかれば、手術などの治療は必要でも簡単に治る病気というのが医療者の認識です。早期に見つけるのが、一番大事で、早期に見つかれば、恐れるに足りずです。今回は症状のない早い段階で偶然にも見つかり、不幸中の幸いであったと思う。悪いのものでなければ、さらに良いが。・・・”

 この日は、長男の通う保育園の親同士の集まりがあった。
 たくさんの家族に会うが、自分がこれまでとは違うものになってしまったような気がして、疎外感を覚える。親の1人に医師がいたので病院について相談するが、ここが良いというところはわからない。その方はいつでも紹介状を書きますと言ってくれた。

 帰宅後、大学の先輩の医師へどこの病院がよいか尋ねるメールを送る。
 その夜は先輩からの返事を待ちながら、ネットで肺ガンや病院についてさらに調べた。
 私立大病院のページには、最新の治療法を導入しているとか、これだけの実績があるとか良いことを主に書いてあるところが多い。最初はそれを見て安心していた。
 が、神奈川県立がんセンターのページを見ると、おそらくこれが事実なのか思えるような厳しいことが書いてある。肺ガンならば、やはり助からないのではないかと思えてくる。
 寝室で寝息を立てている子どもたちの顔が目に浮かぶ。今度キャンプに行こうとか、大きくなったら山登りや海外旅行に行こうとか、たくさんの約束をしてきた。自分はもう、その約束を果たすことができないのだろうか。そう考えると、涙がボロボロこぼれてきた。

2011年4月29日 (金)

影が見つかる

 東日本大震災から、昨日で49日目。
 亡くなった方々は、次の生に生まれ変わったのだろうか。

 地震から数週間は、右往左往して不安な毎日だった。しかし、そろそろ動き出さなければと考え始めた1ヵ月後に、震災よりも大きな衝撃を自分が受けるとは思ってもいなかった。

 4月15日、健康診断の追加検査で撮ったCT(Computed Tomography:コンピューター断層撮影)の結果がでた。
 通常の胸部レントゲンにかすかな白いものがあると言われて、この時期に放射線被爆かと思いながらしぶしぶ受けたCT検査である。健康そのものなので、「結局なにも見つかりませんでした」という言葉以外ありえないと思っていた。

 が、診察室に入った僕の目の前には、信じられない画像があった。左肺の中央あたりに明瞭な影がある。本当に自分の肺の写真なのか。
 医師の説明によると、それは腫瘍の疑いがあり、肺の腫瘍で良性のものは少ないという。その病院ではこれ以上検査ができないので、大学病院へ行くよう勧められた。
 ガンなのか!
 まったく予期しない病名だった。このときから、不気味な影の気配に怯える日々が始まった。

 ある写真家が記した言葉が、脳裏に浮かぶ。
 Life is what happens to you, while you are making other plans.
 (人生とは、何かを計画しているときに起こる’別の出来事’のこと)

 これを書いている4月29日、手術の日どりは既に決まった。
 5月27日。
 CTの影が悪性腫瘍かどうかは、まだわからない。今の医学では診断できないのだ。だから最悪を想定して肺にメスを入れ、影がなにかを手術中に診断する。そしてガンならば、その場で肺の4分の1を切除する。
 もしガンでなく、感染症等による炎症の影ならば、ある程度の時間治療すれば完治するだろう。
 だが、もしガンならば手術が問題なく終わったとしても、再発(転移)の可能性がある。肺ガンの再発は、ほぼ死を意味するという。その可能性は大きくはないが、確かにある。

 カメラマン&ライターとして、そして幼い2児の親として、これからやりたいことは多くある。しかし残された時間が限られるなら、病とどう向き合ったかを書き残さなければならないと思う。
 とまどいや悩みを、できるだけそのまま記しておきたい。
 それがこのブログを始める意味だ。

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