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2011年7月

2011年7月28日 (木)

ランニング再開!

 手術から2ヶ月が過ぎた。
 肺の手術の場合、3ヶ月ほどで傷の影響がなくなると聞いていたので、3ヶ月目にはもとの体力に戻すことを目ざして、この間リハビリを続けてきた。
 退院後すぐに毎日の散歩を始めて、1ヶ月を過ぎたころからは息が上るような運動も意識的にやった。けれども鼓動が少し早くなると、胸のなかを小さな針で刺されるような痛みを感じて、ランニングの再開にはなかなか踏みきれなかった。

 7月8日(手術から1ヶ月半)に、長男のあさひがかよう保育園で七夕の笹流しがあり、写真を撮る人が足りないというので参加した。リハビリがてらのんびり撮ろうと考えていたが、カメラをもつとやる気がでるもので、一眼レフ2台を首からぶら下げて歩きまわり、汗だくになりながら1000枚以上の写真を撮った。走ることはできなかったが、体はいつのまにか動くようになっていたことを実感した。
 このとき、もうひとつ嬉しいことがあった。
 子どもたちは短冊に「およげますように」とか、「うちゅうに いけますように」など、思い思いの願いごとを書くわけだが、あさひが書いた願いはこうだった。
 「とうさんのきずが はやくなおりますように」
 それを知って胸が熱くなった。やりたいことや欲しいものではなく、父親の傷が治ることが一番の願いごとだったとは。彼の円形脱毛症はまだ治っていない。早くもとの体に戻らなければと、つよく思った。

 それから3日後の朝のこと。
 いつものように、保育園のバスが迎えに来る場所まであさひを見送りに行った。その日はたまたま機嫌が悪くて、バスに乗りたくないと泣きながらいうので、仕方なくいっしょにバスへ乗りこんだ。そして、無意識にあさひをだきあげて席へ座らせた。
 その後、泣いている子どもを乗せてバスはいつも通り出発したのだが、よく考えると、あさひをだきあげたのは手術後初めてのことだった。0歳の次男はだっこしていたが、17キロの長男を持ちあげるのは控えていた。久しぶりにだきあげたあさひは少し重くなっていたが、僕の傷はほとんど痛まなかった。傷が治りつつあることを感じた。
 その日の夕方、保育園から帰ってきたあさひに、「朝、だっこできたよな」というと、恥ずかしそうに飛びついてきた。今度は、力いっぱいだきあげた。あさひは足をばたばたさせて、体いっぱいに喜びを表現していた。
 良かった。涙がでそうになる。
 あさひの願いに、一歩近づくことができた。
 すてきな七夕をありがとう。

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 その翌週は、多忙な1週間となった。
 7日間のうちに、1泊2日の行事が3回連続したのだ。
 普段の体調なら忙しいなと思う程度だが、まだ傷の癒えていない体である。途中で体が動かなくならないようにと、慎重にのぞんだ。
 行事の1つ目は、アメリカから帰ってきている妹家族や両親との温泉旅行。手術後初めてプールに入って、少し泳いだ。調子にのって潜水をしたら、肺がチクチクと痛んだ。

 2つ目は、京都でのプロジェクト報告会。昨年12月に行ったインドの祭礼調査の報告をした。
 調査を終えてから半年以上たつのだが、その間に次男の誕生、東日本大震災、そして手術と重なり、調査の整理らしいことはほとんどできていなかった。そのため前日の準備は徹夜になり、一睡もせずに京都へ向かうことになった。
 何とか報告を終えて、2次会も顔をだし、その晩ビジネスホテルでようやく寝ることができた。
 翌朝、新幹線で帰宅する。新横浜駅のホームを歩いて、手術直後の激痛を思いだしながら、徹夜で京都を往復できるまでに戻ったんだとしみじみ思った、

 3つ目は、水戸で茶馬古道の講演会。紅茶館を主宰する方が毎年のように呼んでくださり、紅茶を学ぶ生徒さんの前で話をするのだ。
 前日に水戸へ入る。福島や宮城に近い町だが、震災後4ヵ月半たったこのときは、以前とあまり変わらないように見えた。しかし話を聞くと、水戸駅周辺でも建物が傾いたり住めなくなったりと、地震の影響がけっこうあったという。駅前通りのアスファルトも、波打っているところが多かった。
 前日に行ったのは、いつも懇親会を開いてくださるからだ。おいしい料理をいただきながら、震災やお茶の汚染の話をした。
 最近の神奈川や東京では、震災は遠いところの出来事という感覚が少なからずあるが、ここ水戸ではみな被災者に近い思いを持っているようだった。家の壁が崩れたり地震の影響で体調を崩したりと、多くの人が直接間接に被害を被っているからだろう。その分、みなの気持ちがひとつになっているような印象があった。僕も早く体を治して、被災地へ行かねばならないと思う。
 この晩は、料理とともにおいしいワインをいただいた。じつは手術後1ヶ月目にがんではないとわかってから、ビールを少しずつ飲むようになっている。だが、ワインを飲むのは初めてだった。断るわけにはいかないと言い訳して、数杯いただく。前日はあまり眠れなかったこともあり、気持ちよく酔いがまわる。こんなことでも、体の回復を実感した。

 翌日の午前中に、2時間半の講演をおこなった。2時間もしゃべり続けると息苦しくなることもあったが、40名以上の参加者は熱心に聞いてくださった。質疑応答も活発で、手応えがあった。多忙なスケジュールにはなったが、話しをさせてもらってよかったと心から思った。
 今回はもちろん仕事として報酬をいただいた。手術後に仕事らしい仕事をするのは初めてだった。久しぶりの充実感とともに、1週間を乗りきれたという満足感を覚えながら、水戸をあとにした。

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 そして、ちょうど2ヶ月目の昨日、満を持してランニングを再開した。
 普段は20分で走るコースを、30分かけてゆっくり走った。最初に息が上がってくるときは肺がチクチクしたが、慣れてくると違和感は消えていった。早歩きでは出ないような、心地よい汗をかいた。

 3ヶ月目には、手術前と同じペースで走ることが目標だ。一歩ずつ着実に、もとの体に戻してゆきたい。
 もし順調に回復できれば、そのときは、さらに次の目標も既に考えている。

2011年7月 7日 (木)

心の整理

 (前回7/6のつづき)

 手術後1ヶ月となる6月27日に、手術を執刀してくださったS教授の診察を受けた。そこで初めて、摘出された肺の写真(7/6掲載)を見た。それを見ると、手術後ずっと疑問に思っていたことの答えがわかってきた。

●なぜ腫瘤だけを小さくとる部分切除ではなく、左肺上葉の舌区をすべて切除したのか?

 「腫瘤の位置が動脈に近かったため」と、入院中に説明されたが、実物を見ない状態では腑に落ちなかった。
  写真を見ると、腫瘤はたしかに気管支の根元近くにあり、気管支の根元には動脈があることも納得できる。
 「あやまって動脈を切ってしまえば、その奥にある肺胞もダメージを受けて働かなくなり、小さく切除しても意味がないのです」と、S教授は説明してくれた。
 それでもがんでなければ小さく取ってほしかったという思いは残るが、技術的に難しいならば仕方がないだろう。

                              (補足) 左肺上葉の舌区           (出典1出典2Lobe

 手術後に感じた疑問が、もうひとつあった。
●「95%以上がんだろう」と言われて手術を受けたが、がんではなかったというのはどう理解したらいいのか?

 S教授に率直に伺ったところ、次のような答えだった。
・私も95%ぐらい肺がんだと思った
・そうは言っても、残りの5%に入ることがある
・抗酸菌感染症の可能性もあったが、がんと区別ができないため、手術がベターだった
・今回は幸いにがんでなかったが、もしがんであった場合、手術が遅れれば手遅れになる可能性があった
・(手術前に)がんとそうでないものとを100%鑑別することは、永遠にできないだろう

 つまり、今回のような肉芽種とがん細胞を、開胸手術することなしに100%鑑別することは不可能ということだった。
 S教授は肺癌手術の名医として多くの本で紹介される方で、その手術件数は数千件におよぶという。がんの疑いで手術をして、がんではなかった症例も少なくはないそうだ。だが手術をした患者の多くは、本当にがんだった。そのS教授が95%の確率でがんと判断したのなら、それ以上の診断は望むべくもなかったと思うしかなかった。

 ネットで検索すると、がんに侵された肺の写真がいくつか見つかる。日本病理学会の病理各論コア画像というページに、僕が疑いをもたれたものと同じ肺腺がんの写真がある。これを見ると、肉芽種もがんも色は同じように白っぽいが、その質感や中央の乾酪壊死巣の存在など、素人が見ても異なる点がある。しかし、目で見れば明瞭なこの違いを、X線やPETなどの間接的な方法では、見分けることができないのだ。そして、より精度のよい肺がん診断方法は、現状では手術以外に存在しない。
 造影CTで撮影した「見えない影」の画像を載せておこう。

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Y1ss_7

Z1ss_4    

 これらの画像には、腫瘤が胸膜を引きこんでいる様子が見られる。これは、周囲の栄養を取りこんで無秩序に増殖するがん細胞の特徴だという。そのためこの腫瘤は、感染症による炎症等ではなく、がんの疑いが強いと判断された。
 このほかに、PET-CT検査でブドウ糖の接種率SUVが7.8もあったので、がんの疑いがより強いと判断された。PETの画像というのは、黒く写った全身写真に、がんと疑われる箇所だけがオレンジ色に光る不気味なものだ。(PET画像を入手するには、カルテ開示の手続きが必要とのことで、すぐには手に入らなかった)

 この「影」に対して、気管支鏡や針生検で開胸手術せずに組織を調べる方法は、もちろん検討された。しかし、病変が小さくて奥にあるため、確実に組織を採取できる保証がなく、そのうえもし採取した組織にがん細胞がなくても、がんを否定できないという。そのため、気管支鏡や針生検をやっても仕方がないという結論になった。

 95%以上という大きな確率ではなく、半分以上の確率で肺がんだと言われたとしても、乳幼児2人をもつ父親としては、手術をしないという選択はなかったと思う。
 がんのなかでも特に生存率が低いと言われる肺がんで、手術を受けられる時期は、病状の初期だけなのだ。体中の血液が集まる肺のがんは、転移が早期に起こりやすい。肺の外に転移してしまったら、手術をしても無意味なのだ。手術ができなければ、根治の可能性が低い抗がん剤や放射線治療を受けるしかない。
 肺がんの可能性が高いなら、1日でも早く手術を受けることしか考えられなかった。主治医の意向に反して、セカンドオピニオンを受ける余裕などなかった。
 肺の一部を失ったのは無念だが、手術を選択したことと、結果的にがんではなかったことは、仕方がなかったと思わざるをえない。

 今回の診察で、S教授に質問したいことはすべて聞くことができた。突きつめれば疑問は残るが、肺を切ってしまった以上、切らずにすむ方法はなかったかと後から考えても虚しさが増すばかりだ。
 何よりも、僕の体はどんどん回復している。退院してから今日までの1ヶ月間、毎日ウォーキングをして、最近は早足で歩けるようになった。もう1ヶ月もしたら、走れるのではないかと思う。
 S教授の言葉のなかに、嬉しいものがあった。肺を小さく切除した患者の場合は、肺の機能がほとんど変わらない人が多く、むしろ良くなる人さえいるというのだ。正確な理由はわからないが、肺の手術をした患者は、肺の働きを意識するようになるからではないか言っていた。
 それならば自分にもありえるのではないか。希望のもてる話だった。

 S教授に感謝の言葉を伝えて、病室を出た。
 そして、すぐに妻へメールした。
「がんの可能性はゼロとのこと。これからも家族4人で生活できる」
 数十秒後には返事がかえってきた。
「あぁ~良かった…ほんとに良かった…。安心した。 じゃあ今日はお祝いだね。焼き魚じゃダメだ。」
 僕には素晴らしい家族がいる。そのかけがえのなさを、42歳になって初めて実感した。
 今回の病をふりかえると、自分の生活や仕事において、いくつかの遠因があったように思う。なにかを変えねばならないという合図なのかもしれない。
 病気がなく惰性の生活を送っていたよりも、得るものが多かった。いつか、そう思いたい。
 再び与えられた命を大切にして、もう一度歩きだそう。一度暗くなりかけた眼前に、以前とは少し違う地平線が広がっている。

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 このブログは、
「がんになって残された時間が限られるなら、病とどう向き合ったかを書き残さなければならない」、
「とまどいや悩みを、できるだけそのまま記しておきたい」、と考えて始めた。
 幸いにもがんではなかったが、病とどう向き合ったかをできるだけ率直に書いたつもりだ。
 正確に、詳細に、と思うあまり力が入り、また往来の遅筆もあり、すべての出来事を書き記すことはできなかった。身内からは、とぎれとぎれで読みにくいとの叱責をうけた。読んでくださった方に申し訳ない。
 書き残した内容は、次の3つだ。

●4/18(最初の診察)~4/27(PET検査)
 どこの病院で診察を受けるか悩む。山岳部先輩のM医師やT大病院のO院長のすすめで、順天堂医院を選ぶ。最初の診察で、肺がんの可能性が高いことを告げられた。とまどいながらも、手術を受けることを決めた。

●5/9(PET結果)~5/25(入院前日)
 結核の可能性もあると考えていたなか、95%以上の確率で肺がんと告げられて、衝撃を受ける。M医師とO院長の真摯なアドバイスのおかげで、手術を受ける以外の選択はありえないと、気持ちを落ちつけることができた。手術の日までにやることを決めて、家族と過ごす時間を大切にした。

●5月30日(入院5日目)~6月5日(退院)
 胸のドレーンをはずすのに一進一退する。S教授やM助教に、手術についての質問をした。病室で、3人の肺がん患者の方々と同室になった。

 今回の更新で、このブログはいったん終了することにします。
 この度の出来事について、心の整理がある程度できたということが理由のひとつです。
 再び気持ちが高まったら、不定期に更新するかもしれません。
 これまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。

2011年7月 6日 (水)

影の正体

 前回の更新から、3週間たってしまった。
 6月15日に順天堂医院を受診して、手術の傷が順調に治っていることを確認し、その足で家族の待つ家へ帰った。ラッシュ時の電車に乗るのが心配だったが、すいている車両を選べば問題なかった。

 20日ぶりに自宅で会う妻と子どもたち。みな元気な姿で迎えてくれ、4人で夕食の卓を囲むことができた。
 本当に良かった。
 命の継続を心配することなくここに戻って来られたことが、心の底から嬉しかった。4月15日に腫瘤が見つかってからの2ヶ月間、大波に翻弄されたような家族だった。この日、再び日常に戻ることができたのだ。95%以上の癌からの生還という数奇な運命ではあったが、幸運な巡り合わせに感謝したい。

 この3週間は、たまっていた雑用をこなすだけで時が過ぎてしまった。だが、子どもたちと触れあう時間は、以前にも増して多かったと思う。6ヶ月を迎えたばかりの次男は、とにかく愛らしい。ころころ変わる表情や、かがやくような笑み、そしてこぼれて落ちそうなほっぺたを見ると、食べてしまいたいほどと本気で思ってしまう。
 天使と小悪魔が同居しているような年頃の長男は、留守中特にいい子にしていたようだが、入院したちょうどその頃に円形脱毛症になっていた。妻もあとから気づいて、愕然としたという。突然の父親の病気を知って、幼い心の容量を超えて感情を出すことさえできなかったのだろうか。一時はあきらめかけたが、この子たちの成長を再び見届けられると思うと、感無量だった。
 そして、家の一大事を足を踏んばって支えてくれた妻に、誰よりも感謝したい。病気がわかってから手術の日まで、以前と変わらず僕を信頼してくれた。それが病に立ち向かう大きな力になった。ありがとう、そしてこれからもよろしく。

 この間の特筆すべきことは、手術後1ヶ月となる6月27日に病理診断を聞きにいったことだ。
 手術中におこなった迅速病理診断は、確定的なものではない。手術後2~3週間かけて、切除した組織を顕微鏡や培養試験で調べて、最終的な病気の診断がでるという。手術で肺癌ではないことをほぼ確認したわけだが、この最終病理診断で結果がひっくり返る可能性も0ではないと聞いていた。だから、まさかの事態の覚悟もしつつ、緊張しながら診察室に入った。

 主治医のS教授が説明してくれたのは、以下のようなことだった。
・腫瘤(しゅりゅう)は、癌ではなく、抗酸菌感染症による肉芽種(にくがしゅ、異物などをとり囲む巣状の病変)である
 <手術後には「非定型抗酸菌」と聞いたが、最終診断は「抗酸菌」とのことだった>
・細菌の種類は「不明」だが、強いていえば結核菌だろう
・他の部位での感染はないので、菌を突きつめる必要はない(今後、菌が生えてくればわかるかも知れない)
・今後の化学療法(服薬)は必要ないだろう。次回は9月下旬にCTを撮る

 もうジョギングを始めてもいいし、海外渡航も問題ないとのことだった。
 心底ホッとした。緊張のため体に入っていた力が、空気のように抜けてゆく気がした。病との2ヶ月間の闘いがようやく終わった。

 抗酸菌とは酸性の脱色素剤に抵抗性を示す細菌グループのことで、結核菌と非定型抗酸菌(非結核性抗酸菌)に分けられるらしい。結核菌は人に移るが、非定型抗酸菌は人に移らない。どちらなのかはっきり知りたかったので、「不明」と言われたことは少々残念だった。

 今回の診察でもう1つの大きな成果は、切りとった肺の写真を見せてもらったことだ。
 切除した肺の実物を見せてほしいと手術前にお願いしたところ、細菌感染の恐れがあるので実物は見せられないが、写真ならば見せられるとのことだった。それがようやく叶った。その写真がこれである。

A2s_2                                写真1 切除した左肺舌区 

B2s                                 写真2 腫瘤付近の断面 

B4s_2                                写真3 腫瘤(肉芽種)の拡大写真 

 全体の色が黒茶色なのは、一度空気を抜いた肺を、ホルマリンでふくらませたかららしい。胸腔鏡(内視鏡)で手術中に撮影した肺の写真を見せてもらったが、それはきれいなピンク色だった。
 写真1が、切除した僕の左肺舌区である。肺全体の10%程度というが、実際の大きさは15cm×11cmあるので意外に大きい。そのなかの黄色い線に沿って切断したスライスが、写真2だ。癌と疑われた腫瘤が、矢印の先に見える。
 この写真を見たとき、「死を覚悟させたのは、こんなものだったのか」と拍子抜けするような感覚がした。癌と疑われるものなら、どす黒い毒の塊のようなものかと思っていたが、意外にも白く弱々しかった。

 この腫瘤は、「乾酪壊死巣を有する類上皮肉芽種」と、医学用語ではいうらしい。「乾酪」とはチーズのことで、腫瘤中央にある(細胞が壊死した)白い核のようなものがチーズのように見えることから、「乾酪壊死巣」と呼ぶ。このチーズ状の部分には、まだ生きた抗酸菌(結核菌)がいる可能性があるという。
 肺に抗酸菌が侵入した初期は、免疫作用によって菌を死滅させようとする。だが菌の力が強く死滅させきれないときは、白血球の一種である「類上皮」細胞が、菌を閉じこめて発症を妨げる、いわば次善の策をとるそうだ。その次善の策が完璧にはたらいて抗酸菌を隔離したものが、肉芽種と呼ばれる今回の腫瘤だった。
 「見えない影」の正体が、ようやく明らかになった。

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