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2013年3月

2013年3月 2日 (土)

「人智を超える力」

 1年以上ぶりの更新だ。この間facebookで発信していたが、大事なことはブログに書いておきたいと思う。

 新聞で見て即購入した『神(サムシング・グレート)と見えない世界』(矢作直樹、村上和雄)は、期待通り面白かった。
 本書では、神を「サムシング・グレート」、「摂理」、「大いなるすべて」、「人智を超えた大いなる力」、「普遍意識」、「元親」などと定義する。キリストや仏ではなく、宇宙の摂理のような存在を知りたかった私にとって、これだと思わせる出だしだった。

 本は2人の対談形式で進んでゆく。遺伝学の世界的権威である村上和雄氏は、「人間の遺伝子がまったくのでたらめな配列・構成で組成されるということは絶対にありえない。私は、科学者としての経験からそう思うようになりました」と述べて、「神」の存在を示唆する。東大大学院教授で救急医療の医師である矢作直樹氏は、「(宗教において)根源的な存在である『摂理』はたったひとつだ」と述べ、「神、すなわち『大いなるすべて』の存在を確信しています」と言いきる。
 私は、遭難と遺体捜索で関わった山が聖山であったことから、チベットの聖地にひかれて、いくつもの地を訪ねてきた。7年前に上梓した『梅里雪山 十七人の友を探して』に、こう書いたことがある。

「聖山とは生命の源である。カワカブ(梅里雪山)という巨大な雪山の麓に暮らす人々は、山のもたらす水と森の恵みによって生かされている。生と死をつかさどるこの神の山は、人々の心の支えとなっている。」

 最近でた記事「知られざる自然の聖地~ヒマラヤの山岳地帯を歩いて」(ニュートン2013年2月号)のなかでは、こう書いた。

「(聖地を訪れると)人間の力を超える何かを感じる。それは、宇宙や生命の起源を想像するときに感じる「畏怖」にも似た感覚である。」

 山や聖地で、この世界全体をつかさどる摂理のようなものの存在を感じ、それこそが神の正体だと思ってきた。そのことを、2人の著者は見事に言いきってくれた。 

_5d_54924s_2              鬼神が宿るという山ツォン・ツォン・マに開いた風穴(ブータン東部)

 本書の話題は、「魂」や「あの世」に移ってゆく。
 自分という存在には「体」と「心」と「魂」があり、肉体的な死によって体と心はなくなるが、「魂」は永遠に続く、と2人の科学者はいう。そして、「魂」は現世から来世へ転生するというのだ! まるで、チベット仏教の信者のようである。DNAは単なる細胞の設計図だが、「魂の設計図」もあるのではないかといい、「その設計図に、前世やカルマ(業)、来世の情報などが、今世の情報と一緒にプログラミングされているのではないか」と、村上氏は問う。遺伝学を究めた人の発言だけに、軽くはない。
 ここまで読んで考えた。心とは「意識」であり、肉体的な生を受けたときにその存在が始まり、死によって存在が終わる。心を科学的に測ることは難しいが、誰もが意識できるものであり、その存在を認めるだろう。一方「魂」は、誰もが存在を認めるものではない。だが、「魂」は「無意識」の世界であると本書でいわれると、それならばわかるという人はいるだろう。無意識になにかをやってしまうことはある。夢もそうだ。夢のなかでは、まったく経験していないものが現われる。あれはいったいどうやって、自分のなかに入ってきたのだろう。そんなことを考えると、もしかしたら無意識=魂というものが自分のなかにあって、そこには前世や見えない世界の記憶が記されているかもしれないと思うのだ。

 本書では最後に、「魂」こそが神(普遍意識)とつながることできる、という話に収斂してゆく。さまざまな宗教の開祖は、何らかの方法で普遍意識とつながってお告げを受けた人だという。凡人でも、夢によって普遍意識とつながることがある。また、そのような大いなる存在(神や祖先など)ときちんとつながっていることが「霊的に健康な状態」であり、薬物やアルコールなどの依存症は、つながらないことにより生じる病だという。つながるということのなかで、「祈り」の解釈がもっとも刺激的だった。人は、自分の力ではどうにもならない事態に直面すると祈る。祈るしかない。それは、「神(森羅万象)とつながるため」なのだという。「神」とつながることによって、「心に中心軸が生まれ、どんな出来事に遭遇してもぶれない生き方を実現」できるという。
 この考えには、新鮮な驚きを感じた。自分の関心に関連づけていえばこうだ。

――聖地とは神(人智を超えた大いなる力)を感じられる場であり、そこで祈ることは、その「神」とつながるためである。――

 正しいかどうか、今の時点では確かめる術がない。ただ、そう考えると、いろいろなことがつながって理解できる。この考え方を核にして、これまでやってきたヒマラヤの聖地巡りを、確かな言葉にできるのではないかと感じている。

 一方で、根源的な不安がある。多くの聖地を訪ねて人智を超える力を感じ、チベット仏教の輪廻転生という考えにも接してきた。だが、私はなにも変わっていないのだ。一昨年の東日本大震災の年に、癌かもしれないと診断されて開胸手術をうけたことがある。しかし結果的に命に別状はなく、体も意識も大きく変わることはなかった。
 両氏はいう。

「(あの世や魂や霊が)あることを知っているのと知らないのとでは、生き方によって大きな差が生じます。そこが、人が幸せになるかどうかの分岐点であり、それができなければ、死の問題、死の恐怖は克服できません。」

 そうなのかもしれないと、これまでの人生から思う。だが私は、神(サムシング・グレート)や魂の世界があるかもしれないし、ないかもしれないと思うだけで、確信をもっていない。その存在を信じることによって得られるという幸福感を、感じたことはない。2人の科学者は、遺伝学や救急医療などの厳しい現場を究めることで、その意識に到達したのだろう。それが具体的にどういう経験の積み重ねだったのか、本書に丁寧には書かれていない。心拍停止状態から蘇生するなどの臨死体験をすると、人は変わるという。「魂」や普遍意識の存在を知って、「死が恐くなくなる」のではないかと矢作氏は指摘する。また、チベット仏教徒は、まさに魂や輪廻転生ということを日々信じて生きている。宗教の教えとともに、彼らが生きる過酷な環境がそうさせるのだろう。
 私はいつ変わることができるだろう。その日まで、神(人智を超える力)を探し求めて、歩き続けるしかない。

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