入院中

2011年6月14日 (火)

家族の力

 今日で退院から10日目になる。
 この間は小さい子どものいる自宅に帰らず、両親の住む実家で静養していた。この10日間でだいぶ歩けるようになり、床にひいた布団で寝起きができるようになった。数日前までは傷の痛みのため、背を上げ下げできる介護用ベッドでしか寝られなかったのだ。
 実家で久しぶりに両親と生活をともにして、多少年老いた姿も目にしたが、2人がまだ元気だということを確認した。今回のことではずい分心配をかけたが、僕が好きなことを続けられるのは、両親が健康で介護などが必要ないおかげだ。改めて感謝。
 そして明日は、妻と子どもたちが待つ家へ帰ることができる。今回の病と入院でいくつものことを考えたが、そのうちの大きな1つは、自分にとって家族がいかに大切なものかということだった。

■5月29日 (入院4日目)
 手術から2晩目は、座薬の痛み止めを使ったため、痛みも熱も少なく落ちついた夜だった。夜中には、1人でトイレにも行くことができて、これからの入院生活に自信をもてた。
 朝食は、パンと野菜炒めなど。味の組合せが今ひとつだが、お腹がすいていたのでほぼすべて食べる。3日ぶりのまともな食事だった。さらに、前日Aさんが持ってきてくれたサクランボをいただく。「入院のお見舞い」というと独特のイメージがあるが、そのイメージどおりの高価でスペシャルで甘酸っぱい味だった。
 前日車いすで行ったレントゲン室へ、今日は歩いてゆく。その後、熱いタオルで看護婦さんに背中を拭いてもらい、着替えをした。

 その後、研修医がたくさん来て、胸のあたりを触ってゆく。肺の傷から空気漏れがないか確かめたようだ。
 彼らと前後して、呼吸器内科のH医師が病室へわざわざ来てくれた。H医師は順天堂医院で最初に診察をしてもらった先生だ。4回受診してその率直な説明の仕方を信頼するようになったし、だからこそPET検査後に「肺がんの疑いが強くなったので、内科の診察は終了します」と言われたときには、見放されたような寂しいような思いを感じた。
 H医師は、僕と同年代だと思う。教授クラスの先生と違い構える必要がないので、今日もいろいろと質問した。
 「肺がんの可能性が95%以上」と言われたことに触れると、「手術をした結果、がんではない可能性が95%くらいになりました。でも今後の病理診断によっては、がん細胞の見つかる確率は0ではないですよ」と言った。そうか、まだ手放しで喜んではいけないのだなと、気を引きしめる。
 いちばん知りたい「なぜ部分切除ができなかったか」という質問も、ぶつけてみた。「執刀した先生と話をしていないのでわかりません」という答えだった。内科の医師としては仕方ないだろう。それらの答えに不満がないでもなかったが、それよりも、H医師が手術後に再び会いに来てくれたことが嬉しかった。

 午後は、妻と子どもたちがやって来た。次男は手術日にも来たが、4歳の長男と会うのは入院後初めてだ。
 4歳というと幼いと思うかもしれないが、言葉が未熟なぶん感受性が鋭く、大人同士が話している内容を言葉と雰囲気の両面からかなり察知している。今回入院するにあたっては、手術やその後のことをできるだけ隠さず長男に話すようにした。入院前に、「話したいことがある」と切り出したときにはビクッとしていたが、手術を受けたら必ず治るというと、少し安心したようだった。
 この日も、自分の状態をできるだけ見せておきたいと思って、手術の傷の写真を見せたのだが、大きな傷跡は恐かったようで一目見て後ずさりした。保育士の妻も「子どもにはショックよ」と言ったが、この弱った状態から回復してゆく過程を、途中の苦しみも含めて見せておきたいと思った。
 幼い子どもに、なぜそこまでしようと思ったかというと・・・、
 肺に影が見つかったとき、自分はもう子どもたちとの約束を守れないのかと嘆き、悲しさと悔しさがこみ上げた。その後診察を重ねて、肺がんの確立がどんどん高まっていったが、僕の気持ちは逆に落ちついてゆくようなところがあった。子どもたちの顔を見ていると、自分が病気で死ぬわけがないと思うようになったのだ。
 天真爛漫で、小悪魔のようで、天使のようで、泣き虫で・・・。生命力にあふれた2人の我が子と一緒にいると、その無限の力が自分にも伝わってくるような気がした。そして、この子たちを残して自分だけいなくなるようには、この世界はできていないと、勝手に思っていた。甚だ身勝手な考えだっただろう。そうでない悲惨なケースが、世の中には多くある。
 だが結果的に、その思いが肺がんと宣告された僕を支えてくれた。つまり、子どもから生きるパワーをもらったのだ。自分の力だけで生きてゆけるとどこかで思っていた僕にとって、それはかけがえのない経験だった。
 病室のベッドに座っていると、長男がすりよってきた。胸から出ているチューブに引っかかるのが恐かったが、ベッドの上でしばらく一緒に座った。「ありがとう、あさひ、すばる」

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 しばらくすると、毎日新聞の連載でお世話になっているTさんご夫妻も見舞いに来てくれた。死ぬような病はいやだが、自分が多くの人に支えられているのを気づかせてくれることもある。
 その後、長男は病院の雰囲気に息苦しさを感じたのかダダをこね始め、次男は暑がって泣き始めた。そろそろ子どもの限界と、みな帰っていった。
 夜が近づくと、また38℃台の熱が出てきた。開胸手術からまだ2日しかたっていないのだ。看護婦さんに相談すると、退院後の生活を考えるなら座薬はなるべく使わないほうがいいという。今晩は我慢できそうな気がしたので、使わずに寝ることにした。

2011年6月13日 (月)

チューブがはずれる

 リハビリのために散歩する速さが、少しずつ速くなってきた。胸のなかの刺すような痛みも収まってきて、今日は手術後初めて痛み止めを飲むのをやめた。
 肺を締めつけられるような違和感はまだ強く、元の体に戻るまではほど遠いが、1日ごとに回復する実感がある。
 4年前に赤ん坊が生まれたとき、日々成長する力に驚いた。そのとき、自分は最近成長していないとため息をついたが、今回、成長にも似た回復力が自分にまだ備わっていることを知って嬉しくなった。これならば半年後にはヒマラヤ行きを再開できるかなどと考えたりしたが、早計だろうか。。

■5月28日 (入院3日目)
 長い夜が明けた。
 7時前、寝たのか寝てないのかわからない状態でいるのを看護婦さんに起こされて、検温と血圧測定をした。続けて、脚のつけ根の動脈から採血する。背中と肺は変わらず痛むが、息ができないような圧迫感はいく分和らいだような気がした。
 その後若い医師がやってきて、「今日からベッドの背を上げて座りましょう」と言いながら、有無を言わさず電動スイッチを押した。何の心構えもなかったので「え~っ!」と驚くが、実際にベッドの背が上がると、それほど痛みもなく座る姿勢になれて安心する。
 「次は水を飲みましょう!」
 事前には聞いていたが、胸が痛いのに飲めるのかと怖気づく。小さな水差しを差しだされて、おそるおそる口に含むと、少量を2口飲みこむことができた。手術前の説明では、手術後1日目の今日から食事をして、歩かなければならない。傷もくっついていない体で、そんなことができるのだろうか。

 しばらくすると可愛い看護婦さんがやってきて、パジャマに着替えましょうという。そういえば手術着を着たままだが、自分1人では着替えられそうもない。まだ20代前半の看護婦に、手とり足とり着替えさせてもらうしかなかった。パンツはどうするのか戸惑っていると、彼女は何の躊躇もなくT字帯(ふんどし)を外してパンツを履かせてくれた。こちらが恥ずかしくなる。よりによって昨日履いていたヨレヨレのパンツしか見つからず、情けない。
 その下着を履くときに、必要に迫られて初めて立った。体につながれたさまざまなチューブを気にしながら、足をベッドの下に下ろして、体重を少しずつ足にかけてゆく。看護婦が「すごい!」と言ってくれて、ちょっと自信がでた。
 その後、人生初めて車いすに座らされて、レントゲン撮影へ。車いすに乗るのは気恥ずかしかった。

 病室に戻ると今度は男の看護士が来て、「必要なくなったものを外してゆきましょう」と言う。まず、鼻についていた酸素チューブをとり、両脚に巻かれていたマッサージ器具を外す。そして、尿道から膀胱まで入っている管も抜くと言う。抜くとき痛いのではないかと身構えたが、「深呼吸をしてください」と言われて息をはく間に、スルッと抜いてくれた。あそこが痛くなるのは情けないし辛いと思ったが、心配なかった。それよりも男の看護士が来てくれてホッとした。

Dsc00867ss_2               背中の傷口  左脇腹には胸内部からのドレーン、背中中央上には脊髄に刺しこまれたチューブ

 昼食は、他の患者と同じ一般食がだされる。大盛りチャーハンにおかず2~3品だったが、チャーハンを数口とおかず1口しか食べられなかった。残念。手術直後はお腹がすいて、グーグーなっていた記憶があるのに。

 今日は、知人が見舞いに来る日だ。昨夜うなっていたときは、見舞いに来られても何もできないと心配したが、今なら少しぐらいは対応できそうだ。
 午後2時に、見舞い客2人と父がやってきた。2人のうちのPは、京都の大学に留学するチベット人の女の子。遭難した友人を探すために通った中国の梅里雪山に、彼女の故郷がある。彼女の父と僕は友達で、3年前に来日してから面倒を見てきた。もう1人のTは、山岳部の後輩だ。2人とも、京都から夜行バスで来てくれた。わざわざ来ることないと言ったが、平坦ではなかったPの日本での3年間を思うと、彼女の気持ちが嬉しかった。がんでなかったことを話すと、喜んでくれた。
 話をしていると看護士がやって来て、「トイレへ行ってみましょう」と言う。歩くのは初めてだ。今朝同様に慎重に立って、おそるおそる足を前に出す。傷の痛みや体につながるチューブのため、自分でも信じられないほど遅くしか進めないが、トイレまでの数十mを自力で往復できたことは、自信になった。
 戻ると、心電図と指先のモニターを外してくれた。少しずつ身軽になってゆくのが気持ちいい。
 4時過ぎには、入院初日に来てくれたAさんが再びやってきた。しばらくみんなで話をしていたら、熱が上がって頭がボーっとしてきた。まだ無理はできないということか。話をする気力がなくなりベッドに横になっていると、みな帰っていった。

 しばらく大人しくしていると看護婦がやって来て、両脚に履いていた血栓予防用のきつい靴下を脱がせてくれて、手術後ずっとつながっていた点滴も外してくれた。点滴用の針は腕に刺したままだが、大物が1つ外れた感じで嬉しい。手術後1日目で、7つものものが体から外れた。残るは、背骨に入った痛み止めチューブと、胸から体液をだすためのドレーンである。

 夕食は昼よりも食べたが、それでも全体の2~3割だけ。2日間、ほとんど食べなかったことになる。
 夕方上がった熱が下がらず、胸の痛みも増してきた。
 夜には、S教授が病室へ来てくれる。ベッドを離れてどんどん歩くことで回復も早まると、アドバイスをくれた。「なぜ部分切除にならなかったか?」という疑問は解決していないが、熱がある状態では、今晩も尋ねることができなかった。

 消灯時間が近づくにつれて、また辛い夜の再来かと恐ろしくなる。看護婦に相談すると、痛み止めの座薬を入れましょうと言ってくれた。人生初の座薬を、女性の看護婦に入れてもらう。昼間のうら若い看護婦ではなく、経験ある頼もしい感じの人だったので助かった。
 この夜は、座薬のおかげで、前夜とは比較にならないほどよく眠ることができた。

2011年6月11日 (土)

肺の10%切除

東日本大震災から3ヶ月。
あの地震と津波の日から、自分はどう変わっただろうか。

■5月27日 (入院2日目=手術日) つづき

・・・・・・

 目の前の狭い範囲が、明るくなってくる。
 が、焦点が定まらず何も見えず、体も動かない。
 -これはきっと夢だな-、と思う。
 -手術が終わったにしては早すぎる-、とも思う。
 意識が少しずつ戻ってくるような気がする。だが、体は動かない。
 -夢だよな。でも、もしかしたら夢じゃないのか?-
 しばらくすると、周りの物音が聞こえてくる。
 -やっぱり夢じゃない。ずいぶん早いけど、どうしたんだろう?-
 周りの人に聞いてみようと思うが、声が出ない。
 口を動かすためにもがいていると、ようやく力が入った。
「いま何時ですか?」
 夢かどうか確かめるために、聞いた。
「12時半です」
 手術室に入ってから、4時間がたっていた。
 いちばん知りたいことを尋ねる。
「がんだったのですか?」
「がんではなかったようです」
 -そうか!、やっぱり-
 自分の感覚がやはり正しかったと思ったが、嬉しいとは思わなかった。それよりも、気になっていたことを尋ねた。
「どれくらい切ったのですか?」
 腫瘤だけを小さく切ったはずだと期待した。
「(左肺上葉の)舌区を切りました」
 -えっ! がんでないのに、なぜそんなに大きく切ったの?!-
 ショックだった。
 -がんでない場合は、腫瘤だけの部分切除ではなかったのか!-
 -いったい何が起こったんだ?-
 呆然とした。
 まだよく動かない頭のなかで、「なぜ? なぜ?」と自問した。
 左肩甲骨のあたりに、強い肩こりのような痛みを感じ始めた。

 そのうちベッドが押されて、広い部屋に移る。首が動いたので周囲を見ると、患者が横たわったベッドが何台も並んでいた。
 しばらく待つと再び動きだして、ベッドごとエレベーターに乗りどこかへ連れてゆかれた。
 見覚えのあるカウンターを通ったなと思ったら、病室のドアが目に入り、その前に満面の笑みを浮かべた妻の顔があった。
 -そうか、がんじゃなかったことを喜んでいるんだな-
 人ごとのように思った。
 一緒にいた0歳の次男も、目をぱっちりと開けていた。
 今朝までいた病室に戻る。そういえばいつの間にか、手術台ではなく病室のベッドに寝かされていた。しばらくすると移動式のレントゲンがやってきて撮影する。それが終わると、両親や妻たちが部屋に入ってきた。
「いやー良かった、良かった!」
 父が嬉しそうに言う。
「緊張の糸がきれたわよ」
 母も言った。
 みな、がんでなかったことに心から安堵していた。
 僕はぼそりと言った。
「がんじゃなかったのに、なぜ大きく切られたんだ?」
 妻が驚いた声で、「不満なの?」と聞いた。
「がんでなかったら最低限の切除にすると言っていたんだ・・・」と僕は答えたが、家族はみな、そんなことよりがんでなくて良かったと喜んでいた。
 両親らが手術後に聞いた話によると、腫瘤は「非定型抗酸菌」によるものだったらしい。聞いたこともない名前だ。妻は、それが子どもに移るものかどうかを気にしていた。
 左胸と背中の左側が、だんだんと痛くなる。傷口から遠いところから麻酔が切れてゆくため、周辺部から痛みがおそってくる。肩こりのような痛みは、腕を上げて横向きの姿勢で手術を受けたためらしい。麻酔が切れるとともに、だんだん寒くなってきた。家族は「暑いくらいよ」というが、動かない体が震えるほど寒い。看護婦さんにいうと、電気毛布を持ってきてくれた。
 1~2時間して、「非定型抗酸菌」が人に移るものではないことがわかると、両親と妻たちは安心して帰っていった。

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 1人になると、時間のたつ速さが急に遅くなる。
 ときおり看護婦さんが来て、傷口を見たり点滴の液を変えたりするが、ほかには何も変化がない。痛みがだんだん増して、熱も出てきた。
 胸のなかに管が入っているはずだが、患部は感覚がないのでよくわからない。鼻には酸素のチューブが当てがわれて、胸や指先にもセンサーがつけられ、右手首に点滴の管が入り、背骨には痛み止めを直接注入するチューブが刺しこまれている。さらに両脚には、血栓予防のためのマッサージ器具が巻かれて動いている。
 尿道の先が痛いような引っかかったような違和感があったので見てみると、なんと細い管が入っていた。
 -えーっ、こんなこと聞いてない!-
 今さら驚いたところで、あとの祭りである。トイレにも行けないのだから仕方ない。
 体に多くのチューブがつながっていると思うと恐怖だが、今はそれよりも肺が切りとられた衝撃と痛みに耐えることが先決だった。
 寝ようと試みるが、なかなか寝られない。それでも何度かうとうとすると、窓の外が暗くなってきた。雨が降っている。今日が梅雨入りらしい。
 ひとり窓の外を見ていると、中学校剣道部の先輩だったD医師が入って来た。
 がんでなかったことを「よかったね」と言ったあと、
「またトレーニングすれば、元の体に戻るから」、と言ってくれた。
 痛みに同情するような、申し訳なさそうな顔をしていた。
 そのときはDさんが何を言いたいのかわからず、わざわざ病室に来てくれたことがありがたくて、「はい、はい」と返事をするだけだった。

 すっかり暗くなってから、再びドアの開く音がしたので目を開けると、執刀したS教授が1人で来てくれた。
 がんではなく非定型抗酸菌らしきものが見つかったこと、肺全体の10%にあたる左肺上葉舌区を切除したこと、診断が確定するには数週間必要なことなどを話してくれた。
 「がんではなかったのに、なぜ舌区を全部切除したのですか?」と尋ねたかったが、熱と痛みにやられた体では、質問するエネルギーが出なかった。
 S教授が帰ってしばらくすると、消灯時間になった。

 背中が痛くて、苦しいのに、寝返りも身動きもできない。こんなことで夜を越せるのだろうか。
 1時間毎に時計を見るが、その度に朝が遠いことを確認してがっかりする。

 真夜中にナースコールをして、看護婦さんに来てもらった。背中が潰れるような感覚におそわれたので、寝返りをさせてもらった。だが半身になるのも辛いので、あまり改善しない。
 看護婦さんがいなくなると、再び、痛みに耐えながら時間がたつのを待った。ボーっとする頭で、「なぜ部分切除ではなかったのか」と、何度も考えた。
 朝は、まだまだ先だった。
 長く、辛い夜だった。

2011年6月 9日 (木)

手術室へ

 手術から2週間たった。
 リハビリのための散歩は、ほんのわずかだが歩く速さ速くなり、初日は止まっているように見えたであろう歩みが、今日はゆっくり歩いているように見えたと思う。だが、前かがみになると胸のなかを針で刺されるような鋭い痛みは、まだ消えない。

■5月27日 (入院2日目=手術日)
 6時起床。ある程度眠ることができたので、目覚めは悪くなかった。
 1ヶ月前に手術日が決まってから、今日に向けて心と体調を整えてきた。それがうまくできたと思う。

 1つやり残したことがあるとすれば、遺言を書けなかったことだ。財産はないに等しいので不要といえば不要だが、わずかではあるが手術失敗の確率や、手術中に大地震がくることを考えると、家族への思いを書き残しておきたかった。だが、書く時間がもてなかった。おそらく、手術中の事故などありえないと思っていたのだろう。
 僕には不思議な自信がある。かつて中国の登山で17人の仲間を亡くしたことがあるのだが、それから10年以上彼らの遺体を捜し続けて、そのほとんどを収容した。捜索のために危険な氷河を何度も歩いたが、自分は17人に守られているから、不慮の事故に遭うことはないと信じてきた。
 今回もそう思うのだ。もし癌ならば、そろそろ彼らに呼ばれたのだろうと思うが、その過程で不測の事故によって死ぬことはないと思いこんでいた。

 7時過ぎ、手術に立ち会うため両親がやってくる。70歳手前の2人はまだともに元気だが、今回のことで寿命を縮ませてしまったのではないかと申し訳なく思う。登山事故で子どもに先に死なれた親を何人も見てきたが、自分の親もそうさせてしまうとは・・・。

 手術中に便が出ないように、昨夜下剤を飲んだ。だがなかなか便意が来ないので、トイレに行ってしぼりだす。
 そのあと看護婦さんに手伝ってもらいながら、手術着に着替えた。T字帯というふんどしのような下着をつけ、2枚のバスタオルをマジックテープで合せただけのワンピースを身にまとう。それだけだ。すぐに裸になれる格好である。最後に、血栓症(エコノミークラス症候群)予防のためのストッキングをはいた。
 まだ部屋を出るまで時間があるので、体操をする。手術に向けて、一段ずつ階段を上るように集中していった。

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 8時20分、別の看護婦さんがやってきて、手術室へ向かうことを告げられる。どうやって行くのかと思ったら、当たり前のように自分の足で歩いていった。大きな入り口の前で両親に挨拶をして、母の求めに応じて握手をする。母と握手をするのは初めてだった。

 入り口のなかは待合室のようになっていて、その奥にいくつもの手術室があった。これから手術を受けるのだろう患者さんが何人もいた。5~6歳の女の子もいた。自分が怖気づくわけにはいかないと思った。
 しばらく待っていると、ついに名を呼ばれた。再び歩いて手術室へ入った。
 なかは意外に広く、そして雑然としていた。中央に、小さな細いベッドがあった。そこへ自分で上がって、仰向けになった。
 冷静さを装っていたが、これからどのような手順で何をされるのか細かくは聞いていない。今さらじたばたしてもどうしようもないと思う一方で、底知れぬ不安を感じていた。
「落ちつけ、落ちつけ」、と自分に言い聞かせる。
 頭上には、電球がいくつも埋めこまれた照明があった。ドラマなどでよく見るが、全体の直径が1m近くもあって思ったより大きい。周りには、器具などの準備をしている人が5~6人いた。手術室のなかはクーラーがきいていて、寒いほどだった。

 やがて助手のような人が何人か近づいてきて、心電図のモニターや血圧計をつけて、点滴の針を右手に何本か刺した。普段なら痛いだろうが、これから始まる手術のことを考えると、些細なことにしか思わない。
 そのあと、昨日会った麻酔科の若い美人の先生がやってきて、昨日の説明どおりに脊髄に針を刺し、麻酔の管を差しこんだ。1度目はうまく刺さらなかったようで、隣の偉い先生と話しながらもう1度針を刺し直した。不安だった。

 そこまで終わると、仰向けの楽な姿勢に戻った。
 やがて、「マスクをつけます」という声が聞こえた。
「これで眠ってしまうのですか」と問うと、「はい、そうです」という答えとほぼ同時に、マスクが口に当てがわれた。口の上に軽く置かれただけだったので、もっと密閉しないといけないのじゃないかと思っていたら、頭が軽くしびれるような感覚におそわれた。マスクをつけてから、10秒ほどしかたっていないだろう。
 その直後、何も考える暇もなく、意識がなくなった。

・・・・・・

2011年6月 7日 (火)

手術前夜

 退院して3日目。
 手術による背中の傷口は落ちついてきたが、肺のなかの傷は咳をするとまだ痛む。
 昨日から、リハビリテーションのために散歩を始めた。息が上がると肺が痛みそうなので、信じられないほどゆっくり歩く。1周1km弱の池の周りを30分かけてのろのろ歩くだけだが、自分の足で外の世界を歩きまわれることが嬉しい。

 入院の話に戻ろう。

■5月26日 (1日目)
 入院前夜は遅くまで雑用を片づけていて、3時間しか寝れなかった。
 朝8時前、容量55Lの登山用ザックに着替えや洗面具・パソコンなど詰めこんで、担いで出発する。これから肺がんの手術を受ける人間だとは、誰も思わなかっただろう。

 9時過ぎ順天堂医院に着いて、9階の病室へ。広くはないが、冷蔵庫や洗面台など一通りそろった居心地のよさそうな部屋だ。
 前日の連絡では1日4万円!の個室に入れられそうになったのだが、頼みこんで安い病室を探してもらい、ハイケア室と呼ばれるこの部屋に入院させてもらえることになった。

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 助教のM医師から手術の説明を受ける。
 左肺の上葉にアプローチするため、背中左側を肋骨にそって15cmほど切開し、さらに胸腔鏡を入れるため小さな穴を別に開ける。僕の左肺上葉は普通の人と違い、上区と舌区の2つに明瞭に分かれているらしい。その上葉の舌区にある直径18mmの腫瘤を取りだして、顕微鏡で観察し迅速病理診断をする。そのために、
①可能であれば、腫瘤周辺部のみの「部分切除」をおこなう、
②動脈に近い等の理由で部分切除が難しければ、舌区全てを切除する「区域切除」をおこなう
とのことだった。
 そして、がんであればリンパ節を含めて侵された部分をすべて切除し、がんでなければ傷口を閉じて終了となる。
 がんならばどのように切りとるかはお任せするしかないが、もしがんでなければ切除範囲をできるだけ小さくしてほしい希望を再度伝えた。
 M医師は、「95%はがんでしょう」と言った。

 その後レントゲンを撮り、採血をする。
 採血は、パンツを下ろして、足のつけ根の動脈からとった。太い注射を刺された痛みと、陰毛のかたわらの注射器にたまってゆく深紅の血液を見て、自分が明日手術を受ける患者であることを、改めて実感した。
 しばらくすると、先ほど採血をした医師とは違う人が来て、採血をやり直させてほしいと言う。もう1度注射を刺されて、血を採られた。そんなことが2度あった。1度目は撹拌が遅れて血が固まってしまったという理由で、もう1度は測定機が壊れたという理由で。最初に採血した医師は大学院生かと思うが、緊張感のない医療行為は、明日手術を受ける患者を不安にさせる。

 昼は父と2人で外出し、御茶ノ水の’山の上ホテル’の料理屋へ。すべての肺がある体での最後の食事だと思い、天丼セット4,200円を注文した。むろんおいしいが、明日のこの時間には肺の一部がなくなっていることを思うと、とても貴重なものを食べている気がした。

 午後は、看護婦さんや麻酔科の医師など何人もの方が次から次へと病室へやってきて、説明を受け、同意書の署名など求められた。
 早い時間に風呂に入り、手術のために左の脇毛を剃る。
 5時過ぎ、病室の整理などしていると、山岳部の先輩2人がやってきた。入院のことは最低限の人にしか伝えていなかったので、びっくりする。ある人に伝えた内容が回り回って、伝わったのだという。わざわざ来てくれたことが嬉しくて、いろいろな話をした。

 夜はネットをつなげるためにバタバタして、9時の消灯時間にようやく落ちついた。
 病室のベッドに横たわったときは、平穏とまではいかなかったが、それほど高ぶった気持ちでもなかった。

 手術は不思議である。手術を受けると言うと、「頑張って」といわれることがあるが、手術中は眠らされるだけで、その間に自分が努力することは何もない。
 手術のために頑張ることは、手術前にほぼすべて終わっている。
 予期しない病気に驚き嘆き、病院選びや治療法の選択を思い悩み、数々の検査を受けて一喜一憂し、風邪を引いて免疫力を落とさないよう気を使い、手術までの日々に何をすべきか考えて実行する。直前10日間は毎日ランニングをして、明日からヒマラヤへ行けるほど体調はよかった。だから、やるべきことはすべてやったと思えていた。それが、多少なりとも落ちついた気持ちでいられた理由だろう。

 9時半過ぎ、うとうとする。
 翌朝までに何度か起きたが、前夜の睡眠不足を解消する程度には眠ることができた。

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